発達障害も緘黙症も個性。
通院している心療内科の先生があっさりし過ぎて楽観的な性格だということを前に書きました。カウンセリングよりも薬が中心の医師だと思います。この先生に私が幼少期に場面緘黙症だったということを告げたことがありました。
それを聞いた医師はキョトンとしました。私は、もしかして場面緘黙症を知らないのでは、と思いました。そして、一瞬の戸惑いの後に「あなたは、それでも特別学級とか特別学校に行ったわけじゃないんでしょ。学業も順調にきてるじゃない。大丈夫。心配し過ぎですよ。もし、そういうので何かあったら学会で発表されてるから。今は、発達障害がブームで、すごい研究されているんだけど、それだって私は個性だと思っている。あなたが声を出せなかったのも、引っ込み思案なだけで個性なんですよ。」と言いました。
この先生、場面緘黙症を知らないか、知っててもほとんど知らないのだろうか。それとも、私の心配し過ぎる性格を見越して、こんなことを言っているのだろうか。またもや釈然としない気持ちを抱えながらも、まぁいいかと思い、診察室を後にしました。
場面緘黙症や発達障害を抱えて、うまく学校生活や社会生活を送れない人がたくさんいます。それを個性と片付けていいものか、と思うのですが、社会が個性と認めるのであれば、それは個性になりうると思っています。ただ、当人、家族以外にとっては、場面緘黙症や発達障害の子どもたちは異端とみなされ、今の社会では差別され、苛めの対象となりやすいです。
心療内科の医師が個性と言ったのは、あながち的外れなことではなくて、場面緘黙症や発達障害だけでなく、ろうあ者やその他の障碍者たちも含めて、差別の対象ではなく個性として認められる社会こそが、目指すべき社会なのだと思います。場面緘黙症の人たちは、声が出せない分、人一倍努力してきたはずです。実直な性格の人が多いはずです。声が出せないことに焦点がいきがちがですが、こうした面にも光が当たり、個性として輝ける日がきてほしいと思います。
面接で向いてないと言われたけど。
ブログに載せるイメージ写真を探していたら、なぜだかこのおばさんの写真が気になってしまった。笑ってる?のだろうか。泣いてるようにも見えるし、不思議なインパクトのある写真。人生の悲喜こもごもが写真へとにじみ出たのだろうか。
先日受けたある面接の時に、「○○には向いてないんじゃないの?」と言われてしまいました。なんと、単刀直入な!その時は、うまく取り繕おうと変な自己アピールをしてしまったけど、少ししてから、胸のつかえが下りたような気がしました。
いっちょ前に転職エージェントに登録しているのですが、そこの担当の方がすごくいい人。紹介案件以外の面接の相談とか、アドバイスとかしてくれます。なので、その人に恩義を感じ始めており、あまり興味のない職種なのに、応募から面接まで義理で進めてしまいました。それと、あんまり紹介案件を断りすぎるともう紹介してくれないんじゃないかという恐れもあったりします。
そんな状態だったので、面接の前日は緊張+行きたくないという拒否反応で、精神がドロドロしていました。ところが、実際に面接に臨もうとすると、パンフレットを読み込み、ホームページをくまなくクリックし、企業研究にも余念がなく、面接でも必死に笑顔を作っています。生真面目というか、よく言えば秀才タイプな自分に嫌気が射します。
面接は、ずらりと並んだ役員を前にして行われ、終盤に「向いてないんじゃないの?」の一言が放たれました。それも社長の口から。その場、そして、その後しばらくは、落ち込みましたが、今振り返ると、「向いてないんじゃないの?」に対しては、「そうなの!向いてないんだってば!!」と言い返したいくらい。まだ結果通知は来ていませんが、たぶん落ちてるだろうな。私も笑いたいのか、泣きたいのかわからない気分です。
面接で言われる「もったいない」にうんざり。
就職活動をしていて、面接で最近よく言われる一言「もったいない」。この言葉を聞くと、もうここはないなと思ってしまいます。私が優秀すぎる訳ではない。体のいい断り文句です。
先日、合同面接会に参加した時も、履歴書と職務経歴書を渡したら、ウチにはもったいないと言われました。それでも粘ったら、心当たりがあるからダメもとで電話してみてあげる、とのこと。その時はなんて優しい人がいるのかと、有頂天になって帰りましたが、その後、なんの音沙汰もありません。うまいこと言って厄介払いされたのかもしれません。こういう地味なことが意外と傷つきます。自分が情けないというか...。
人事の人は「もったいない」をどんな意味で使っているのか。断り文句なのか、本心なのか。本心なら他を紹介してくれ!断り文句なら尚のこと、他を紹介してほしい。もう自分が良い人になるために、「もったいない」なんて言葉を使わないでほしい。
田舎にしては、まあまあ学歴がある。前の職場でも実績を重ねてきた。自負があるからこそ、「もったいない」に踊らされてしまいます。よくよく考えたら、大抵のもったいないものたちは捨てられるから、もったいないのだ。使えるけどいらないのだ。労働市場において、「もったいない」けど捨てられる。どうかそう言わずに私を使ってください。
一人は泥を見た。一人は星を見た。
日が沈むと何故だか別人のようにポジティブな人間になります。きっとこっちの方が本当の自分。朝の自分は何者なのだろう。
夜も更けて21時を過ぎるとさらに気分は軽くなります。どうしたんだろう。気持ちが軽い。無職なんてどうでもいい。何とかなるさ!って気分になります。人って不思議ですね。
気分も軽くなってきたところで、本題に。私の思春期の人格形成に深い影響を与えた漫画作品があります。それは、「ジョジョの奇妙な冒険 第6部 ストーンオーシャン」です。高校生の当時、週刊少年ジャンプで連載中でした。ジョジョシリーズの中で、唯一の女性主人公、ジョリーンがちょうど当時の私と同じ年代ということで、ジョジョにハマっていました。
私はジョジョの奇妙な冒険に熱を上げていたわけですが、独特の画風によりジョジョは当時のジャンプの中でもあまり人気のない部類、どちらかというとコアなファン向けの作品だったと思います。それは、私も十分に感じていて、クラスの中で大きな声でジョジョが好きとは言えない雰囲気がありました。当時はワンピースやナルトが連載をスタートさせて間もないころで、圧倒的にこちらの作品の方が人気があったのです。
しかし、私も誰かとジョジョの素晴らしさを共有したくなります。そこで、クラスの中でもアニオタ気味な女子に話をしてみました。「ねぇねぇ、ジャンプ読んでたよね。ジョジョって読んでる?」彼女は少し表情を曇らせてこう言いました。「ジョジョはちょっとね...。好きな人は好きみたいだけどね...。」彼女は、エヴァンゲリオンについて目を輝かせて話すようなオタクでした。今でこそ市民権を得ているエヴァも当時はアニオタの代名詞でした。しかし、ジョジョはそのアニオタにさえ拒否されていたのです。
ジャンプは弟が買っていたものでした。私自身は漫画がそこまで好きではありません。アニメもほぼ見ません。そんな私でしたので、当時は、エヴァにハマるようなオタクに対して偏見を持っていました。(今は偏見はありません。エヴァファンの皆様ごめんなさい。)しかし、そんなオタクにジョジョはやんわりと困り顔で否定されたのでした。
これ以降、私はアメトーークでジョジョ芸人によってジョジョが市民権を得始めるまで、ジョジョ好きを封印してしまいました。言ったら最後、変態だと思われかねない。難しいお年頃の高校生だった当時、そう誓ったのでした。
さて、前置きが長くなりました。本当に本題に入ります。「ジョジョの奇妙な冒険」は第一部から第六部まであります。そして、シリーズの最初と最後、第一部と第六部に、微妙に表現は違うものの、共通した一節の詩が出てきます。フレデリック・ラングブリッジの「不滅の詩」の一節です。
二人の囚人が鉄格子から外を見た。
一人は泥を見た。
一人は星を見た。
Two men look out through the same bars:
one sees the mud, and one the stars.
この詩を受けて、第六部の主人公、空条徐倫はこう言います。「私は星を見るわ」ジョジョの奇妙な冒険第六部のテーマは希望です。そして、たくましい精神力で、希望を捨てない徐倫の姿が第六部の見所です。思春期の頃の私は、この徐倫に自己投影し勇気づけられていました。今日、何となくそのことを思い出しました。星を見ることを忘れていないか、という潜在意識からのメッセージだったりして。
心療内科医。笑顔で「大丈夫」私「...はい。」
午前中に心療内科に行ってきました。レクサプロが一錠増えました。今日からリフレックス3錠+レクサプロ2錠、睡眠薬ロゼレム1錠の処方です。増えていく薬の量に不安を感じます。
いつになったら、薬を減らせるのか。今日、心療内科で診察中に、前と同じくらい辛いと言ったら、「大丈夫。就活中で面接したり通知待ちしてて、普通の方がおかしい。これで食欲があったら、抗うつ薬が利きすぎてるってことになるからね。」と笑顔で返されました。そう、就活のストレス、無職の引け目が辛いのです。でも、笑顔で大丈夫なんて言われたら、もうそれ以上話せない弱気な自分。ここはもう、「はい」と言って引き下がるしかありません。
心療内科の先生曰く、食欲が落ちてても睡眠がとれてるなら、大丈夫らしいです。確かに夜は気分がよくなるし、睡眠薬なしでも寝付ける日の方が多いかも。「脳の機能としては問題ない、原因は心因性のものだから、きっと就職が決まればよくなる、あなたもわかってるでしょ。」と言われてしまいました。私もそれは感じています。
一応、相談してるので、共感とかしてほしいのですが、このお医者さんは、うつには縁遠いカラッとした性格で、いつも笑顔で「大丈夫」と返されてしまいます。他の心療内科や精神科の先生ってどうなんでしょう。なんかもうちょっと話を聞いてくれそうな気がするけど、他に行ったことがないからわからない。
私はねちねちした人や嫌味な人が苦手なので、こういう竹を割ったような性格の先生に会うと、内科医にしろ皮膚科医にしろ、そこに通うことが多いです。なので、いつもこんな感じの診察で、さっさと終わってしまうのだけど、まぁ別にいいかと思ってしまう。「考えすぎ。大丈夫。大丈夫。」そう言われて、今日も診察室を後にしました。
またご飯食べれずで、体重が落ち始めてるけど、確かに眠れてるなら大丈夫かな。深く考えすぎないこと、きっと大丈夫。