一人は泥を見た。一人は星を見た。
日が沈むと何故だか別人のようにポジティブな人間になります。きっとこっちの方が本当の自分。朝の自分は何者なのだろう。
夜も更けて21時を過ぎるとさらに気分は軽くなります。どうしたんだろう。気持ちが軽い。無職なんてどうでもいい。何とかなるさ!って気分になります。人って不思議ですね。
気分も軽くなってきたところで、本題に。私の思春期の人格形成に深い影響を与えた漫画作品があります。それは、「ジョジョの奇妙な冒険 第6部 ストーンオーシャン」です。高校生の当時、週刊少年ジャンプで連載中でした。ジョジョシリーズの中で、唯一の女性主人公、ジョリーンがちょうど当時の私と同じ年代ということで、ジョジョにハマっていました。
私はジョジョの奇妙な冒険に熱を上げていたわけですが、独特の画風によりジョジョは当時のジャンプの中でもあまり人気のない部類、どちらかというとコアなファン向けの作品だったと思います。それは、私も十分に感じていて、クラスの中で大きな声でジョジョが好きとは言えない雰囲気がありました。当時はワンピースやナルトが連載をスタートさせて間もないころで、圧倒的にこちらの作品の方が人気があったのです。
しかし、私も誰かとジョジョの素晴らしさを共有したくなります。そこで、クラスの中でもアニオタ気味な女子に話をしてみました。「ねぇねぇ、ジャンプ読んでたよね。ジョジョって読んでる?」彼女は少し表情を曇らせてこう言いました。「ジョジョはちょっとね...。好きな人は好きみたいだけどね...。」彼女は、エヴァンゲリオンについて目を輝かせて話すようなオタクでした。今でこそ市民権を得ているエヴァも当時はアニオタの代名詞でした。しかし、ジョジョはそのアニオタにさえ拒否されていたのです。
ジャンプは弟が買っていたものでした。私自身は漫画がそこまで好きではありません。アニメもほぼ見ません。そんな私でしたので、当時は、エヴァにハマるようなオタクに対して偏見を持っていました。(今は偏見はありません。エヴァファンの皆様ごめんなさい。)しかし、そんなオタクにジョジョはやんわりと困り顔で否定されたのでした。
これ以降、私はアメトーークでジョジョ芸人によってジョジョが市民権を得始めるまで、ジョジョ好きを封印してしまいました。言ったら最後、変態だと思われかねない。難しいお年頃の高校生だった当時、そう誓ったのでした。
さて、前置きが長くなりました。本当に本題に入ります。「ジョジョの奇妙な冒険」は第一部から第六部まであります。そして、シリーズの最初と最後、第一部と第六部に、微妙に表現は違うものの、共通した一節の詩が出てきます。フレデリック・ラングブリッジの「不滅の詩」の一節です。
二人の囚人が鉄格子から外を見た。
一人は泥を見た。
一人は星を見た。
Two men look out through the same bars:
one sees the mud, and one the stars.
この詩を受けて、第六部の主人公、空条徐倫はこう言います。「私は星を見るわ」ジョジョの奇妙な冒険第六部のテーマは希望です。そして、たくましい精神力で、希望を捨てない徐倫の姿が第六部の見所です。思春期の頃の私は、この徐倫に自己投影し勇気づけられていました。今日、何となくそのことを思い出しました。星を見ることを忘れていないか、という潜在意識からのメッセージだったりして。
場面緘黙症だった頃。公文の先生。
私は、幼稚園に入るとすぐに場面緘黙症となり、小学校5年生のころに、やっとクラスメイトと話ができるようになりました。幼稚園や小学校ではほとんど友達ができず、ひたすら本を読んで過ごしていました。そんな子どもだったので、勉強はできたかと言えば、全然だめでした。
本は読めても、文字を書くことは苦手だったし、算数は全くダメでした。小学校一年生のときには、小テストがほぼわからず白紙で出したこともありました。そこで、小学校一年生にして追試を受けることになったのですが、私はテストの前にドリルを復習して、前よりも空欄を埋めて提出しました。たぶんほぼ空欄はなく、7~8割がたは正解していたと思います。私は先生に褒められるとばっかり思っていました。しかし、先生はこう言いました。「もう少し頑張りましょうね」と。6歳の私は、とてもがっかりしました。
それ以降、私は学校での勉強への意欲をこれまで以上に失いました。元々マイペースだった私は、さらに協調性を失い、学校へ登校して、窓際の席に座って、日がなグラウンドを眺め続けました。ノートも気まぐれに取るくらいで、グラウンドを横切る野良猫を観察する方が楽しかったのです。
泣いたりわめいたりしないだけましですが、はっきり言って問題児です。友達は作らない、声は発さない、勉強もしない。私が新米教師だったら、毎日泣いていたかもしれません。そんな状態だったので、一年生の担任の先生は、私が二年生に上がるときに、特別学校への転校をすすめてきました。
結果的に、二年生になるときに担任の先生が変わり、転校は免れました。この辺のことは前に書いた通りです。二年生に上がるころに、私は公文に通うようになりました。勉強ができないことを心配した母が、私を公文に通わせるようにしたのです。私には、一つ上に姉がいて、この姉と一緒に通い始めました。
公文では、一年生だからこの内容を勉強するというのではなく、生徒のレベルに合わせたプリント教材を使っていました。今もこのシステムは変わっていないと思います。私は、二年生でしたが、幼稚園生か一年生がするような内容から始めました。1から50までの数字が書かれた丸いマグネットを、同じく1から50までの数字が書かれたマグネット板にくっつけていくというのを毎回していました。先生がストップウォッチで何秒かかったかを計ってくれました。前より早くできると、「この前より早くできたね」と誉めてくれました。帰り道に、姉は「あんな幼稚園の子がするようなのやって。本当にバカだよね。」と言ってきましたが、私はちっとも気になりませんでした。
さらさらとしたボブカットに丸くて大きな眼鏡をかけた公文の先生は、母よりも少し年上で、落ち着いた控えめな印象のする女の先生でした。いつも膝丈のフレアスカートを履いていて、ゆっくりとした声で話してくれたような気がします。私は、首を縦に振ったり、横に振ったりするだけでしたが、優しくそれに応えてくれました。プリントの宿題を毎回忘れても、少しも怒らず、今度は宿題を出さずに教室での勉強だけでカバーできるようにはからってくれるような先生でしたから、よっぽど忍耐強くて優しい人だったのだと思います。
公文の教室は、いつも静かでプリントをめくる音や時々先生の話声がするくらいで、生徒の息遣いが聞こえるほどでした。私は、普段はぼーっとしているのに、過集中するタイプで、静かな公文の教室が好きでした。公文が嫌いにならずに小学校を卒業するまで通い続けられたのは、やはり先生によるものが大きいと思います。
公文に通いはじめて、そして、担任の先生が変わって、私はメキメキと成績を伸ばし始めました。高学年になる頃には、もう姉に成績が悪いことを揶揄されることもなくなっていました。私が場面緘黙症から脱せられたのは、この二人の先生によるところが大きいと思います。
公文の先生は何をしたという訳でもないのですが、私にとっては成績が良くなって自信がついたことが場面緘黙症の克服に重要な役割を果たしたように感じていて、やはり学校の授業だけでは、私は勉強についていけなかったと思っています。私は、場面緘黙症で大人しいかと言えば、内実は気が強く、反抗的なところのある子どもだったので、そんな私を見守ってくれて、勉強に興味を持って取り組める場所を作ってくれた公文の先生に、とても感謝しています。今でもお元気にしていらっしゃるのでしょうか。私にとっての恩師は、小学校二年生からの担任の先生とこの公文の先生です。
人生はコントロールできない。
前に「場面緘黙症を克服した人たち」というブログ記事の中で紹介した「場面緘黙症に生まれてよかった★」というブログに気になる言葉が乗っていました。
自分が「安全だ」と感じるためには頑張りすぎないことが大事だと思います。自分を責める人は、自分が人生の舵をとりすぎて責任を過剰に背負いすぎていることが多いです。周りで起きる悪いことが全部自分のせいまたは人、環境のせいに感じているならその概念を取り外すことが、楽になるきっかけになるはずです。
「場面緘黙症に生まれてよかった★」
私には耳が痛くなる言葉です。だって、引き寄せの法則に頼って、人生の舵をとろうとしているのですから。矛盾することですが、私は引き寄せの法則を実践し続けます。そして、上の言葉も大事にします。
私は自意識過剰でナルシストなくせに、自己否定感が強く自分に自信が持てません。引き寄せの法則には、自分の可能性を信じることによって、自己肯定感を高めてくれる作用があると思っています。人には根拠のない自信が必要ですが、うつにはそれがなく、あるのは根拠のない不安だけだからです。
無理にポジティブになろうとしたり、思いのままに引き寄せようとしすぎたりすることは、うつを悪化させる可能性があります。そうではなくて、引き寄せの法則が持つ行動しなくてもいいから、いつもより少しだけ明るい気持ちでいるといった考え方や心の在り方がうつに効果的だと思うのです。矛盾したことを書いているので、自分でも混乱しているのですが、引き寄せの法則をつかって宇宙にお願いをしたら「手放す」というのは、それに囚われすぎてコントロールしようとしないことだと思うのです。
こうあらねばならない、こうすべき。うつの病前性格として完璧主義が上げられています。私はまったく自覚がなかったのですが、うつになって自分も完璧主義者であることを知りました。それでも、人生の舵を自分でコントロールするという事は、どだい無謀なことだと頭ではわかりながら、完璧主義から逃れられずにいます。手放すことがもっと簡単にできるようになればいいのに。
いつか叶えたい夢
私には、いつか叶えたい夢があります。まだ漠然としていて、具体的ではないですが、それは自分で会社を持つことです。会社を持たなくても個人事業主でもいいです。とにかく自分で考えて、仕事をしてみたいと思っています。
前の職場を辞めるときに、「起業するの?」とか「会社始めたら雇ってよ。」とか冗談で言われました。自分では、いつかは起業とは思っていたものの、周りには一言も漏らしていなかったので、びっくりした覚えがあります。でも、冗談でもそう言われたという事は、適性があるのかしら、などとうぬぼれたりもしています。
このブログで、場面緘黙症だったこと、うつになったことを書きましたが、私は、精神的にタフなタイプではありません。自営業者になったら、自分で営業もしないといけないし、責任もとらないといけません。起業するにあたっての一番の心配事は自分のメンタルの弱さ、そして見栄っ張りで人に頼れないことです。ここが克服できれば、何とかなるかなと思っています。
今は精神的にまいっています。そして、資金もないし、事業の具体的なアイディアもありません。まだ、夢を実現する時ではないと思っています。まだまだ準備期間です。5年後になるのか、40歳のときか、50歳のときか、定年後か、タイミングがきたら、いつかは自分で仕事がしてみたい。夢の形はどうなるかわかりません。一人で起業するかもしれないし、誰かパートナーと組んで仕事をするかもしれない。まだまだぼんやりしていますが、こんな夢を持っています。
考えすぎとは、わかっているものの。
今日は、月曜日です。月曜日の朝は、大抵とても目覚めが悪いです。無職なので、仕事が始まるわけではありません。しかし、家族が仕事に出かけ、家の周りの工事の音や配達の音が聞こえてきて、無意識に無職である自分を責めてしまいます。週末は家族と一緒に過ごし、気も晴れていた分、余計にそう感じます。
今朝は、不安や焦燥感というよりも恐怖に襲われて、目が覚めました。不思議な嫌な夢を見ていたような気がします。夢だとわかりながら、うっすらとした意識の中で、次第に恐怖が大きくなり、目が覚めました。起きたら、汗をびっしょりかいていました。
夜になれば、建設的な考えができるのに、なぜか午前中は、不安に駆られます。考えすぎだとわかっているのに、どうしても止められません。金曜日に一社面接を受けてきました。あまり当てにしていない企業でしたが、書類通過し、SPIもWEB受験し、面接となりました。面接は午後からだったので、午前中は緊張と不安とでいてもたってもいられず、何とかウィダーインゼリーを流し込んだものの、すべて吐いてしまいました。
自分でも嫌になるほど、感情のコントロールができません。午後から、実際に面接に行ってみると、気さくな感じで和やかな職場でした。面接官と一緒に働く事になるであろう女性社員にしか会いませんでしたが、安心したというのが第一でした。面接から帰ると、急にお腹が減って、ご飯をバクバク食べました。さっきのは、何だったんだろうというくらいに。
その後、その日の夜までは気分よく過ごしたのですが、また、土曜日の朝にはどんよりしてしまいました。面接を受けた企業の仕事内容が、自分が望む仕事とはちょっと違うということ、そして、全国転勤があるかもしれないということ(転勤について、面接の時に詳しく聞こうと思っていたのに、聞けずじまいでした。聞いたら落とされるかもと思って、聞けなかったというのもあると思います。)、新しい人間関係についていけるかどうか不安になったこと、二次面接の通知待ちの緊張感が主な原因だと思います。
不安を紛らわすために、午後からは外出し、歩いて身体を動かしました。家に帰る間までは、不安や緊張感があったのですが、日が沈み、帰宅したころには気分が落ち着いてきました。仕事が望むものとは違うこと→やってみたら面白いかも。全国転勤→家族から自立するいいきっかけになるかも、その前に結婚すれば免れるかも。人間関係の不安→これまでも何とかなってきたから大丈夫。というような感じで、考え方の切り替えができました。
明けて日曜日の朝も、少し不安な気持ちで起きたものの、金曜日・土曜日に比べたら気分のいいものでした。ただ、午前中から夕方にかけて、緊張感や不安感、焦燥感が波のようにやってくる感じがしました。掃除をしたり、外出したり、夕食後には散歩したりしたのですが、あまり良くならず、眠りました。そして、今朝、不快な感じで目が覚めました。あまり覚えていませんが、夢の中に面接の会場がでていた気がします。そして、考え方が土曜の朝に戻ってしまいました。
金曜の夜から昨日にかけてアップしたブログはすべて自分を鼓舞するような内容だという事に気が付きました。またしても完璧を目指す癖が出てきています。自分は、神でもなければ、独裁者でもない。すべてを理想通り、完璧にしようとするのは止めよう。考えすぎだということは、自分でもよくわかっています。朝の自分が本当なのか、夜の自分が本当なのか、わからなくなることが多いです。
考えろ!考えるな!
「考えろ!考えるな!」そう言われたら、戸惑います。さっき、テレビを見ていたら松岡修造が出ていて、松岡修造の謎のメッセージとして、この言葉が紹介されてました。確かに矛盾した謎のメッセージ...。
松岡修造にとって、何も考えないことは悪なのだろう。しかし、考えすぎて頭の中がぐるぐる回るのがよろしくないそうで、だから、考えるな、という事らしいです。考えないことはダメだけど、だからと言って考えすぎも良くないから、「考えろ!考えるな!」
私が思うに、松岡修造は、非常にセンシティブな人。意外に感受性が強い内向型な人ではないかと思うんです。通常、感受性の強い人は、感情の起伏が人よりも激しいから、幼少期に自分の感情をコントロールする術を身に付ける。それが行き過ぎてしまうと、私のように場面緘黙症になったりするわけです。
ところが、松岡修造の場合は、インプットもすごいけど、アウトプットもすごい。こだわりが強すぎる人の場合だと、抑えきれずに言動や行動に感情が出てしまう場合があります。私もそうなのですが、我慢が限界に達すると、堰を切ったように感情が爆発してしまいます。松岡修造の場合は、堰を切るハードルが低い、もしくは、ハードルが高かろうが軽々と飛び越えてしまってるかで、感情表現が爆発しているのではないかと思うのです。
この人のすごいところは、テニスの指導者として子どもたちを叱ったりしてますけど、負の感情を表には見せないというところです。松岡修造が怒っているように見える場面というのは、叱るという行為をしているときだけで、それは指導的立場として、ある種の演技や感情のコントロールの下に行われているように思います。つまり、テレビ画面を通しては、基本的に本気の怒りや哀しみは見せていないのではないかと思うのです。
私は、このブログをリアルの世界でつながりのある人には完全秘密で書いています。なので、何をどう書こうが全くの自由なのですが、それでも普段のくせが出て、良いかっこしいで前向きな事ばっかり書いてます。ブログの中でも感情を抑制して、温和で穏やかな人間を演じようとしているのです。松岡修造も自分と似た内向的で感受性の強いタイプの人間なのでは、と思うのはこの点なのです。
通常、感情表現の豊かな人というのは、喜怒哀楽すべての感情が平等に表出されます。しかし、松岡修造の場合は、喜と楽は表出していますが、怒と哀は表出されていません。私のような不器用な人間とは違い、喜と楽だけ感情のリミッターを外し、コントロールの外に出しているのではないでしょうか。
松岡修造という人は、こだわりが強くて、頭の中が絶えずぐるぐる回転していて考え込むタイプ、内向型の人間なのだと思います。努力型のネガティブ人間の性として生まれてくるポジティブ発言がブレイクしてしまい、世の中的にポジティブ人間としてのお面を被せられているのかもしれません。内向的な人は時として、思考に囚われ、後にも先にも進めなくなってしまいます。だから、内向型人間から出た言葉としての「考えろ!考えるな!」は、しっくりくるし、格言ともなりうる深い言葉です。ネガティブ人間の気持ちがわかるからこそ、彼のポジティブ発言は魅力があると思うのです。
おみくじが大吉だった。
毎年、お正月に初詣に行くとおみくじを引いています。今年は、大吉でした。でも、本当に大吉なの?ってくらい、ついてないことが多い気がしています。すぐに仕事が決まるかなと思っていたら、なかなか決まらないし、やっと決まったと思ったらダメになったり、ついでにうつ病になったり。でも、仕事が決まらないこと以外には、悪いことは起こってないし、まあ上々か、とも思います。
周りに心配をかけて、今までの人生の中でもありえないくらい落ち込んだおかげで、人のありがたさを身に染みて感じました。心配して連絡くれたり、逆にそっとしておいてくれたり。ダメな自分でも心配してくれる人がいることに気が付いて、家族愛にしろ、友情にしろ、人の善意を感じることができたのは、幸せなことだとしみじみ思います。
ところで、大吉のおみくじですが、願い事については、「半ばより安く叶う」と書かれていました。基本的には、年初に近所の神社でしかおみくじは引かないので、今年の半ばはもうすぐ、今が正念場であと少しで願い事=就職が決まる、と信じています。不安はたくさんあって、昨日は、あんなことを書いてしまったし、今日も午前中は泣いてしまいました。信じる者は救われる!きっとうまく行くから大丈夫。
場面緘黙症だった。
私は、4歳から9歳くらいにかけての約5年間、場面緘黙症でした。場面緘黙症というのは、家族などとても親しい間柄の人たちだけの場面なら普通に話せるのに、そうじゃない場面、例えば、幼稚園や学校などでは、一言も言葉を発せないという症状のことです。(Wikipedia場面緘黙症)ただ単にシャイや人見知りというレベルではなく、外に出たら、全く声が出すことができなかったのです。
以前に、私は「ご縁について考える」というブログ記事の中で、大人しく病弱な子どもだったおかげで、幼稚園も小学校も優秀な先生が担任になってくれた、と書きました。正確にいえば、場面緘黙症で先生はもちろんクラスメイトともうまく意思疎通ができないせいでいじめられっ子な上に、ぜんそく持ちで入院したりする、とっても面倒で厄介払いされても当然な子どもだったのです。事実、小学校一年生の担任教諭は、母に養護学校への転校を進めたそうです。しかし、そうした提案をした先生はその方だけで、幼稚園と小学校二年以降の担任の先生たちは、強い使命感によって私を受け持ってくれたようです。
私が、場面緘黙症になったのは、幼稚園の入園式の日でした。私は、両親が共働きで日中は祖父母に面倒を見てもらっていたのですが、祖母がかわいい孫と一緒に過ごす時間が短くなるのは寂しいという理由で、本来年少から入園するところを年中から入園しました。もうこの時点で、察しのよい読者なら私が過保護に養育されたであろうことを予想したはずです。実際その通りで、過保護に育てれらた上に、すでに一年前から園児同志の人間関係ができている中に放り込まれた私は、緊張と怯えから声を発することができなくなったのです。
私は、今でもはっきりと、入園式で名前を呼ばれた時に誰よりも元気よく大きな声で「お返事」ができたことを憶えています。それにも関わらず、その後、お遊戯室から小さな教室に通され、自己紹介を促された瞬間から先、卒園式まで声を出すことができませんでした。他の園児たちから一斉に自分に向けられた視線に恐怖を感じ、声が出せなかったのがきっかけ場面緘黙症になりました。入園式までの私は、運動神経は悪いものの活発でお転婆な子どもでした。しかし、入園式の後の私は、物静かな誰とも打ち解けられない子どもになってしまったのです。
耳は聞こえていて、理解できているようなのに、リアクションもほとんどなく、声を発さない子どもというのは、同じ子どもから見て、異質で気味が悪かっただろうな、と今では思います。幼稚園では、当たり前のように苛められ、その理由も先生に言えず、ただ涙を流したりしていました。友達もほとんどできず、私は自由時間のほとんどをひらがなで書かれた図鑑や絵本を眺めて過ごすことが多かったように思います。
小学校に入ってからも、相変わらずで、転機は二年生になって担任の先生が変わった時に起きました。小学校一年生の担任は、定年間近のベテランの女の先生で、私が言葉を発さないこと、そして、授業にまったく関心がなく、ひたすら窓の外を眺め続けていることに限界を感じたらしく、二年生からは特別養護学校へ転校したらどうかと薦めてきたそうです。母は非常にショックを受けたそうですが、二年生になるときに担任の先生が変わり、若くてやる気に満ちあふれたその先生は、「私に任せればきっと大丈夫」と太鼓判を押し、私はぎりぎりのところで転校を免れました。
緘黙症がそれほど世間で認知されていなかった当時、もしかしたらベテランの先生とは逆に、若い先生の方が緘黙症についての知識を持っていて、その差がこうした結果になったのかな、とも思います。だからといって、一概にベテランの先生が無知でやる気がなかったとは批判できず、私が無気力で、反抗的な態度をとっていたのも事実ではあります。他にも忘れ物が多かったり、遅刻癖があったり、ADHDないし、ADDだった可能性もあると思います。母は、絶対に発達障害ではなかったと言ってはいますが。
そんなこんなで二年生になってからは、無気力で集中力のない私に新しい先生は、手取り足取り教えてくれて、私の成績は少しずつ良くなっていきました。ついでに、公文に通い始めたことも大きかったと思います。公文の先生も優しくて、集中力がなくて声も出せない生徒に根気強く接してくれました。本当に頭が上がらないくらい感謝しています。
私に少しずつ自信がついてきたこと、そして、担任の先生の計らいで、私が苛められず、むしろ気を使ってクラスメイトが接してくれるようになったことで、私は四年生頃には授業中であれば、声が出るようになっていました。その頃には、私はクラスでも上から数えて数人の頭のいい子になっていて、授業で答える分には、「間違えない=恥をかいたり、批判されない」という安心感があったのだと思います。その後も、少しずつ積極性ができて、五年生の頃には、クラスメイトとも話ができるようになり、大人しいけど普通の子レベルになりました。
その後も人間関係を築くのが苦手で、学生時代は一人でいたりすることも多かったのですが、荒治療とも言える企業に就職したおかげで、友人も増え、まともなコミュニケーションが取れるようなりました。今は、プライベートでは内向的でおとなしい人ではあるけれども、仕事となれば積極的に人と関わることのできる人になりました。ただ、緘黙症の頃の後遺症が全くないとなると嘘になると思います。今でも、対人恐怖はありますし、今回、うつになったのも無関係ではないと思っています。
そうかといって、場面緘黙症が私の人生にとって悪いものしかもたらさなかったかと言われれば、そんなことはないと思います。私が特殊な子どもだった事で、両親、親戚、近所の人、教師など、私を取り巻く大人たちのほとんどが、私に注意を払い、見守ってくれたことで、普通の子よりも大きな愛を感じて育つことができたと思っています。人生のある一点まで、私は世の中の人はみんな自分を嘲笑したり攻撃してくるのではないか、という恐れを抱いていましたが、今では、世の中の人は基本的には好意をもって接してくれると思えるようになりました。傷つくことが多かったおかげで、他人の痛みを理解することもできるようになりました。もし、場面緘黙で悩んだり、苦しい思いをしている人がいるのなら、そして、場面緘黙の子を持つ親御さんで心配が絶えないという方がいるのなら、そんなに悪いことだらけでもないんじゃないかな、と伝えたいのです。
ご縁について考える。
袖すりあうも多生の縁、ということわざがあります。町ですれ違い様に袖が触れ合うような関係でも、前世からの何らかのご縁がある、という意味です。10代や20代前半の若いころは、「ご縁」という言葉には何ら興味がなく、年寄くさい言葉とすら感じていたのですが、私も年をとったのでしょうか、この「ご縁」について考えるようになりました。
学生から社会人になり、仕事を始めるようになると、直接だったり、電話だったりで、毎日、違う人と出会うようになりました。気の合う人もいれば、そうじゃない人もいるし、良い人もいれば、そうじゃない人もいます。嫌いな人とでもある程度、我慢してでも付き合わなければならないことが、学生時代と社会人になってからの大きな違いでしょうか。
しかし、悪いことだけではなく、やはり仕事を通じてでしか出会えなかったご縁というものも感じるのです。私は、社会人になってから、年上の友人がたくさんできました。中には、私の両親と同じくらいの年の人もいます。年上の友人たちは、私を子ども扱いしたり、後輩扱いしたりせず、対等に扱ってくれ、悩みを打ち明けあったりしています。私にとっては、かけがえのない大切な友人であり、彼ら、彼女たちの生き方をとても尊敬しています。
ご縁には、良縁と悪縁がありますが、私は基本的には良いご縁に恵まれていると思っています。私は、だいたいラッキーで、良い運の巡り会わせの中で生きてきたような気がするのです。私は、お金持ちの良家に生まれたわけではありません。小さいころには小児ぜんそくに苦しみ、大人しい性格のせいでいじめられたりもしました。
しかし、私は祖父母が一生懸命働いて建てた家で育ち、今も暮らしています。祖父母の夢と思いが詰まった家で暮らすことは、とても幸せなことです。小さくて古い家ですが、家族との距離が近く、楽しい毎日を過ごしています。また、大人しく病弱な子どもだったおかげで、小学校や幼稚園の担任の先生に恵まれました。担任の先生たちは、私を放っておけないという理由で、私の担任になってくれたのでした。厄介な子どもを進んで受け持つくらいですから、責任感が強く、優秀な先生たちだったのです。
そして、優秀な先生によって、他の児童よりも人一倍目をかけられていたので、小学校高学年の頃には、クラスでも頭のいい子になっていました。先生が私をひいきしている、というクラスメイトもいましたが、私にとっては救世主で彼女たちがいなければ、どうなっていたかわかりません。本当に運がよく、いい先生に巡りあったと思います。
ただ、私はこんなに良いご縁に恵まれたのに、つい最近までご縁を年寄臭いなどと嫌厭していたのも事実です。ご縁や運には、前世から続くものや先祖から受け継いだ徳によってもたらされるものがあるそうです。おそらく、私はこうした蓄えられた徳がもたらしたご縁によって救われてきたのです。私は、漫然と構えているだけでも、運が良かったので、それが希少で大切なものであることに気が付けなかったのかもしれません。そして、30歳になって、少しずつ自分の行いによって紡がれたご縁も巡ってくるようになり、その大切さに気づき始めたのかな、と思っています。
人生は魂の修行の場説。転職。
人生は魂の修行の場である、とはよく聞く話。え、聞いたことないって?きっとそういう人もいるでしょう。しかし、スピリチュアルなことに興味のある方ならきっと聞いたことがあるはずです。
私は、お二人の著書を読んだこともなく、少しだけスピリチュアルに興味を持っています。それは、私自身がちょっと不思議な体験を何度かしたり、目撃したことがあるからです。怖い体験はしたことがないですが、現在の科学では説明できないようないわゆる霊的な体験です。そのため、何らかの死後の世界は存在するのではないかと思っています。
スピリチュアル好きにとっては、もはや当たり前である「人生は魂の修行の場」説ですが、私は、これを結構信じています。そして、人生の中で与えられた課題を乗り越えるべきタイミングがあり、それを人は「試練」と呼んだりしてきたのではないかと。私にとっては、今が人生で幾つか現れる試練の時ではないかと思っています。
こんな記事を書いたのは、今日、とあるブログを読んだからです。そのブログには、転職というのは、魂の修行がある程度済んで、もう今の職場では学ぶべきことがありませんよ、となったときに、次の職場が用意されるのではないかという趣旨が書いてありました。もちろん、人によっては、新卒から定年までひとつの職場に勤めあげる人もいる訳ですから、すべての人に当てはまるわけではないでしょう。ただ、そのブログの主は、いざ転職するタイミングになった時に、なかなか決まらなかったかと思えば、とんとん拍子で次の職場が決まったりして、それは、やはり何らかの力が働いて、道を阻んだり、逆に進めたりされて、魂の修行にふさわしい職場へと導かれているのではないかと書いていたのです。
これについては、なるほどと思いました。私の前の仕事が、職種自体は興味があったのですが、業界については自分には向いていないと思っていて、半分嫌々勤めはじめたからです。しかし、自分では向いていない場に置かれたことで苦労もしましたが、学ぶべきことも多く、大きな成長が得られました。
前職は、私にとって初めての職場だったのですが、就職活動がうまくいっていない時期(というよりは、自信を失ってやる気のない時期)に、軽い気持ちで応募、そして、その後の面接、採用、初出社までが、あっという間に完了しました。良いご縁はとんとん拍子に進むとは言いますが、そういうことなのだと思います。前職について、私は自らが最も成長できる場へと不思議な力で導かれていたのかもしれません。
今、私は無職で求職中なのですが、決まりかけた仕事がダメになったり、不運なことがありました。しかし、その決まりかけた仕事は私が次にめぐり合う魂の修行の場として相応しくない職場だったので、そこへ行く道を阻まれたのかもしれません。決まるときは、すんなり決まる。ご縁のある職場には必ずめぐり合うはず、そう思いながら就職活動をしています。
日記を書く。自分を見つめることの大切さ。
前記事では、うつ病になった経緯を書きました。その後、4月になって通い始めた心療内科で抗うつ剤と睡眠薬(リフレックスとロゼレム)を処方され、症状は落ち着きました。はじめの2週間は、何も考えずに身体と精神を休めることにしました。もともと重度ではないためか、この2週間で症状は劇的に改善し、夜も眠れ、食欲もありすぎるほどに出てきました。しかし、心の中では、すぐに就職活動を再開しなければという思いがあり、治療開始後、3週間目に履歴書を送付し、4週目には面接も受けました。この面接がよくなかったのか、薬の効果が頭打ちになったのか、4月末には、また無気力で不安に襲われる日々がやってきました。それに伴い、食欲も落ち、手の震えや動機、発熱といった自律神経の症状も復活しました。
自分でもこれ以上、薬に頼りたくないという気持ちが強く、また、心療内科の予約も2週間後だったため、自力で精神を改善させる方法を模索しました。ネットで検索したり、本を読んでみたりして探す中で、三行日記というものがよさそうだと思い、始めてみました。一行目にその日の嫌なことを、二行目にその日の良かったことを、三行目に翌日の目標を書くというものです。はじめの10日間は、さっぱりでした。しかし、2週間続けてみると、少しずつではありますが、症状が改善されてきました。途中から、三行日記に、「幸せだから、成功するの?引き寄せの法則について。」で書いた「引き寄せの法則」の未来日記やショーン・エイカー氏の提言する感謝日記の要素を付け加えたのもよかったのかもしれません。
日記を書き始めて良かったのは、次の三つです。ひとつは、周りへの感謝の気持ちが生まれたということ。これは、三行日記の成果というよりも、引き寄せの法則と感謝日記のおかげです。でも、これが一番、心にプラスな影響を与えてくれました。ふたつめは、プラスの考え方のくせができ始めたこと。うつ状態で一人でいると、様々な負の考えが頭に浮かんできます。自分はダメ人間だとか、嫌われてるとか、ひどい時だと希死念慮が出てきます。しかし、三行日記では、悪いこと、嫌なことを書いた後に、必ず良いこと楽しいことを書きます。そうすると、自動的に、悪いことを打ち消すように良いことを思い浮かべることになります。そして、三つめは、自分本来の姿を見つめる機会ができたこと。嫌なこと、良いことは、自分がどう感じたかということが基準です。読み返してみると、考え方のくせだったり、何を大切に思っているのか、ということが少しずつ見えてきます。普段の生活の中で、他人との比較や世間体を考えてないがしろにしてきた部分が浮かび上がり、自分をもっと大切にしようという気持ちが沸き上がってきました。
精神が好転してきたのは、日記を書き始めてちょうど二週間後です。でも、その二週間はひどい心理状態でした。人と話もしたくないし、テレビや車のエンジン音もうるさくて仕方がない、不安感から身の置き方がわからず、部屋をぐるぐる回ったりもしました。暗い部屋にこもったかと思えば、太陽の光を浴びたくなり、外に出て何時間もぼーっとしたりしました。そんな状態が二週間続いて、ある日、ふと心が軽くなりました。もちろん、その後も、気分の浮き沈みはありますし、今も不安感は残っていますが、ずっと症状がよくなったのです。私には日記を書くという方法が合っているようで、うつ病が良くなってからも続けようと思っています。うつになったそもそもの始まりは、食欲がなかったり、睡眠時間が短くなったり、変なテンションだったりといった小さな変化に、自分で気付けなかったからです。日記を書くことで、心身の微妙な変化に気づき、メンタルの不調を予防することも可能なのかなと思っています。
はじめに。
まずは、現在の私の状況を説明します。31歳、女性、無職。うつ病で通院中です。無職期間はもうすぐ10ヶ月で、うつになったから仕事を辞めたわけではなく、無職期間が長くなり、求職活動のストレスから、発症しました。書いているだけで、胃がむかむかして、不安が押し寄せてくるような状況です。
ブログのタイトルは、「それでも夜が明ける」としました。うつになってからは、朝がとてもつらく、得も言われぬ不安感や焦燥感とともに目覚めます。つい最近までは、眠る前にこのまま永遠に夜が明けずに朝が来なければいいのに、と思いながら目を閉じていました。しかし、それでも夜は明け、朝はやってくるのです。
「それでも夜は明ける」は、2013年公開の映画の邦題です。原題は"12 years a slave"、白人に騙され奴隷として売られた主人公が、再び家族と再会するまでの苦難の日々を描いた映画です。(詳しくはこちら)どんなに逃れようと心はもがいても、生きている限り苦しみは続き、明日が来なければいいのにとさえ願っても、それでも夜は明け、苦しみは繰り返される。そんな絶望の心を代弁する「それでも夜は明ける」そして、苦難の日々にもやがて終わりが訪れ、希望の光が照らすという意味での「それでも夜は明ける」そんな二重の意味を含むタイトルが、今の自分の気持ちを表すのに、一番合っていると思い、ブログタイトルにお借りしました。(今の私の状況は映画の主人公に比べれば甘えたものではありますが。)
一年前、私はまさかうつ病になるとは思いもしませんでした。私は、働くことが大好きで、仕事が楽しかったのです。転職の理由は、自分が他でも通用するのか試してみたい、環境を変えてもっと刺激的な場所で働いてみたい、という思いでした。そこには、30歳を迎えたことでの焦りがあったと思います。ポジティブな意味での先述した理由もありましたが、まったく逆の安定した職に就きたいという思いもありました。今でも、本当の理由なんてわかりません。しかし、30歳になっても、女一人で生きていく覚悟ができるほど年収がいい訳でもなく、かと言って、結婚の予定があるわけでもない。とにかく何かを変えたかった、そんなもがきの結果としての退職だったのかもしれません。
それなりに評価された立場を捨てて勿体ないことをした、もっと冷静になって計画的に転職活動をすべきだった。そんな思いが、胸を去来することがあります。しかし、これでよかったのだと、私は思っています。うつ状態になって、自分と向き合う時間ができました。支えてくれる家族や友人への素直な感謝の気持ちが芽生えました。必要以上に頑張りすぎて、周りが見えず自分さえも見失っていたことに気が付きました。今は、まだ辛くとも、いつか日はのぼり、明るい日々がやってくる。このブログでは、今の状況から自由で幸せな生活を叶えるための道のりを綴っていこうと思っています。










