場面緘黙症だった頃。担任の先生。その3
私は、場面緘黙症でしたが、少しずつ声が出せるようになりました。初めは授業での発言から。「○○わかる人~!」と先生が言うと、挙手をして小さな声で「○○」と一言答える。そんな感じでした。それでも、音読は苦手。友だちと話す場面では、声が出ませんでした。
そんな私が、クラスメイトと話ができるようになったのは、10歳の頃です。その日は体育の授業でグラウンドにいました。私たちは整列をしていて、走る順番を待っていたところでした。その時にクラスメイトの女の子数人が私の周りにいて、「ねぇ、なんで授業中は声が出るのに、私たちとは話せないの?」と聞いてきました。はっきり言って自分が一番わかりません。知っているなら、とっくに話せているのだから。ただ、この時はなじるように言われたのではなく、単に疑問に思ったから聞いてきただけのようでした。
その時、もう一人の女の子が「じゃあさ、『あ』って言ってみて。いつも授業では話せてるんだから言えるでしょ。」と言ってきました。周りは、おしゃべりに夢中だったり、走る人の姿を見ていたりして、こっちに注意は向いていません。私は、チャンスだと思いました。ここで、「あ」って言ったら、きっと話せるようになると。そして、勇気を振り絞って「あ」と言いました。蚊の鳴くような小さな声でした。私に話しかけた女子たちはビックリして、一瞬凍りついたように見えました。まさか話すとは思っていなかったのかもしれません。
一瞬の沈黙の後、その女の子は「ねぇ、もう一度言ってみてよ。」と言いました。私はまた、小さな声で「あ」と言いました。女の子たちは、私に耳を近づけて、その声を確認すると「なんだ、言えるんじゃん。」と言いました。その後は、「じゃあさ、『あ』って言えるなら、『い』って言ってみてよ。」と言われ、私は『い』と言いました。そんな感じで、「う」とか「え」とか「お」とか言わされ続けました。
体育の授業が終わって、茶色く錆びついた体育館脇の水飲み場で、水を飲んでいると、「ねぇ、ねぇ、先生。ととちゃんがね。声を出したんだよ。」と報告していました。先生は、にこにこ笑って、こう言いました。「そうだよ。ととちゃんは話せるんだから。」体育の授業が終わっても、そのことについて先生は私には、直接何も言ってきませんでした。ただ、見守ってくれていたのです。
私が子どもたち同士の輪の中で話せるようになるためには、先生の力を借りるのでなく、私自身が勇気を持たなくてはならないし、子どもたち同士で解決すべき問題だと、先生は思っていたのかもしれません。また、先生が「今日、声を出せたんだってね。」なんて言ってしまっては、私がプレッシャーに感じると思っていたのかもしれません。
その後も、「ねぇ、○○って言ってよ!」というごっこは続き、私は、「○○」と言い続けました。女の子たちは私を囲み、楽しそうにしていました。それを見て、私も楽しくなりました。ただ、リアクションの薄い子どもだったので、私も楽しいと感じていたことが、クラスメイトの女の子たちに伝わっていたかはわかりません。
「あ」とか「い」とか言えるようになったその日の内に、私は「うん」とか「ううん」も言えるようになりました。そうこうしている内に、小さな声でボソッとではありますが、質問されればきちんと声に出して答えられるようになっていました。私はずっと声を出したいと思っていたのですが、きっかけがなかったのです。
でも、なぜかあの日、私に興味を持った子がいて、私を場面緘黙症から引き出してくれました。これで、もうほとんどの場面で、声を出すことができるようになったのです。ただ、小学校を卒業するまでは、初対面の大人が苦手で、風邪をひいたりして、病院に行くときには必ず母か祖母が診察室まで付き添っては、「お母さんに聞いてるんじゃありませんよ。」などとたしなめられたりしていましたが。それでも、思春期になると急に家族が疎ましく感じて、自分のことは自分でできるようになり、初対面の大人ともそれなりに会話ができるようになりました。
振り返ると、やはり担任の先生の力がすごく大きかったと思います。意思疎通の苦手な子どもに根気よく接してくれたこと、自信を持たせてくれたこと、周りの子どもたちにも理解を求めたこと、感謝してもしきれないほど感謝しています。場面緘黙症で辛い思いもたくさんしたけれど、大きな愛に包まれて育ったことを本当に感謝しています。
場面緘黙症だった頃。担任の先生。その1
場面緘黙症だった頃。担任の先生。その2
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