場面緘黙症だった頃。公文の先生。
私は、幼稚園に入るとすぐに場面緘黙症となり、小学校5年生のころに、やっとクラスメイトと話ができるようになりました。幼稚園や小学校ではほとんど友達ができず、ひたすら本を読んで過ごしていました。そんな子どもだったので、勉強はできたかと言えば、全然だめでした。
本は読めても、文字を書くことは苦手だったし、算数は全くダメでした。小学校一年生のときには、小テストがほぼわからず白紙で出したこともありました。そこで、小学校一年生にして追試を受けることになったのですが、私はテストの前にドリルを復習して、前よりも空欄を埋めて提出しました。たぶんほぼ空欄はなく、7~8割がたは正解していたと思います。私は先生に褒められるとばっかり思っていました。しかし、先生はこう言いました。「もう少し頑張りましょうね」と。6歳の私は、とてもがっかりしました。
それ以降、私は学校での勉強への意欲をこれまで以上に失いました。元々マイペースだった私は、さらに協調性を失い、学校へ登校して、窓際の席に座って、日がなグラウンドを眺め続けました。ノートも気まぐれに取るくらいで、グラウンドを横切る野良猫を観察する方が楽しかったのです。
泣いたりわめいたりしないだけましですが、はっきり言って問題児です。友達は作らない、声は発さない、勉強もしない。私が新米教師だったら、毎日泣いていたかもしれません。そんな状態だったので、一年生の担任の先生は、私が二年生に上がるときに、特別学校への転校をすすめてきました。
結果的に、二年生になるときに担任の先生が変わり、転校は免れました。この辺のことは前に書いた通りです。二年生に上がるころに、私は公文に通うようになりました。勉強ができないことを心配した母が、私を公文に通わせるようにしたのです。私には、一つ上に姉がいて、この姉と一緒に通い始めました。
公文では、一年生だからこの内容を勉強するというのではなく、生徒のレベルに合わせたプリント教材を使っていました。今もこのシステムは変わっていないと思います。私は、二年生でしたが、幼稚園生か一年生がするような内容から始めました。1から50までの数字が書かれた丸いマグネットを、同じく1から50までの数字が書かれたマグネット板にくっつけていくというのを毎回していました。先生がストップウォッチで何秒かかったかを計ってくれました。前より早くできると、「この前より早くできたね」と誉めてくれました。帰り道に、姉は「あんな幼稚園の子がするようなのやって。本当にバカだよね。」と言ってきましたが、私はちっとも気になりませんでした。
さらさらとしたボブカットに丸くて大きな眼鏡をかけた公文の先生は、母よりも少し年上で、落ち着いた控えめな印象のする女の先生でした。いつも膝丈のフレアスカートを履いていて、ゆっくりとした声で話してくれたような気がします。私は、首を縦に振ったり、横に振ったりするだけでしたが、優しくそれに応えてくれました。プリントの宿題を毎回忘れても、少しも怒らず、今度は宿題を出さずに教室での勉強だけでカバーできるようにはからってくれるような先生でしたから、よっぽど忍耐強くて優しい人だったのだと思います。
公文の教室は、いつも静かでプリントをめくる音や時々先生の話声がするくらいで、生徒の息遣いが聞こえるほどでした。私は、普段はぼーっとしているのに、過集中するタイプで、静かな公文の教室が好きでした。公文が嫌いにならずに小学校を卒業するまで通い続けられたのは、やはり先生によるものが大きいと思います。
公文に通いはじめて、そして、担任の先生が変わって、私はメキメキと成績を伸ばし始めました。高学年になる頃には、もう姉に成績が悪いことを揶揄されることもなくなっていました。私が場面緘黙症から脱せられたのは、この二人の先生によるところが大きいと思います。
公文の先生は何をしたという訳でもないのですが、私にとっては成績が良くなって自信がついたことが場面緘黙症の克服に重要な役割を果たしたように感じていて、やはり学校の授業だけでは、私は勉強についていけなかったと思っています。私は、場面緘黙症で大人しいかと言えば、内実は気が強く、反抗的なところのある子どもだったので、そんな私を見守ってくれて、勉強に興味を持って取り組める場所を作ってくれた公文の先生に、とても感謝しています。今でもお元気にしていらっしゃるのでしょうか。私にとっての恩師は、小学校二年生からの担任の先生とこの公文の先生です。
0 件のコメント :
コメントを投稿