緘黙症の後遺症?頑張らないと受け入れられてもらえない。
昨日は、どん底に落ちた気分でしたが、少し回復しました。今日は、朝の不快感も少しましです。昨日書いたブログを再度読み返してみて思ったのですが、改めて私は自己評価が低く、甘え下手な性格だと。「誰かに依存したくないという思いが人一倍強い」と書いていました。その通りです。弱みを見せるのが嫌い。いつも完璧、涼しい顔して生きていたい。
でも、これってとても苦しい生き方です。最近、このことに気が付きました。ただ、わかってはいても、そこから脱することができません。自己評価が低く、ありのままの自分では、誰かに愛してもらえるはずがないと思っているからです。
私は幼少期、場面緘黙症でした。場面緘黙症だったことで、気味悪がられ、幼稚園では苛められました。苛めても反論しないし、先生にチクることもできないから、ますます苛めれます。そうすると人が怖くなり、信じられなくなります。
場面緘黙症で苛められなかったなんて人はおそらく皆無ではないでしょうか。普通にしているだけで苛められるのですから、自己評価は下がって当たり前です。愛される価値のない自分、声も出すこともできない惨めな自分。場面緘黙児たちは、そう思いながら、幼稚園や保育園や小学校で過ごしていると思います。
愛されるにはどうしたらいいでしょうか。勇気を出して、努力して、声を発するしかありません。一度きっかけを得て、声が出るようになった後も、友だちになってもらうために、勇気を振り絞って挨拶したり、努力して会話の取っ掛かりを探したりします。誰かと仲良くなるためには、「努力あるのみ」なのです。
そうして努力して人間関係を築けるようになった元場面緘黙症の大人たちは、その後も友人を作るには、恋人を作るには、努力が必要だと思い込んでいます。しかし、よくよく考えてみると、周りの人たちはいとも簡単に努力なんて必要なしに気軽に友達になったり、恋愛関係になったりしています。私はこんなに気を使って、努力して、我慢を重ねているのに!
何だか長くなってしまいましたが、私が言いたいのは、場面緘黙症だった人は、人に対する恐怖心があり、それを乗り越える勇気が必要だったり、我慢や努力を重ねたりして、やっと場面緘黙症を克服し、人間関係を築けるようになったのだと思います。だから、誰かと仲良くなるには、受け入れられるには、愛される価値のある自分を作り上げる努力や我慢を積み重ねるものだと思い込んでいるところがあると思うのです。努力して初めて人間関係を築けた経験があるのだから、そう思わざるを得ません。
私は、外ではめったに怒りません。いつもしっかり者で落ち着いていると言われます。でも、心の中ではいつも激しい感情の起伏に惑わされ、それをコントロールするのに必死です。ここで怒ったら嫌われる、とか思ってしまうのです。頑張らないと愛される価値のある自分でいられない。頑張らないと受け入れられない。こういった思い込みから脱することができれば、もっと楽に生きられるのに、と思うのです。
「誰かに依存したくないという思いが人一倍強い」逆もまた然りです。私は、人並み以上に誰かに甘えたい、愛されたいという欲求が強いと思っています。世の中には好き勝手に生きて、それが魅力となり、愛されている人がたくさんいます。いつか自分の感情を解放してあんな風に生きてみたい。
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