発達障害も緘黙症も個性。
通院している心療内科の先生があっさりし過ぎて楽観的な性格だということを前に書きました。カウンセリングよりも薬が中心の医師だと思います。この先生に私が幼少期に場面緘黙症だったということを告げたことがありました。
それを聞いた医師はキョトンとしました。私は、もしかして場面緘黙症を知らないのでは、と思いました。そして、一瞬の戸惑いの後に「あなたは、それでも特別学級とか特別学校に行ったわけじゃないんでしょ。学業も順調にきてるじゃない。大丈夫。心配し過ぎですよ。もし、そういうので何かあったら学会で発表されてるから。今は、発達障害がブームで、すごい研究されているんだけど、それだって私は個性だと思っている。あなたが声を出せなかったのも、引っ込み思案なだけで個性なんですよ。」と言いました。
この先生、場面緘黙症を知らないか、知っててもほとんど知らないのだろうか。それとも、私の心配し過ぎる性格を見越して、こんなことを言っているのだろうか。またもや釈然としない気持ちを抱えながらも、まぁいいかと思い、診察室を後にしました。
場面緘黙症や発達障害を抱えて、うまく学校生活や社会生活を送れない人がたくさんいます。それを個性と片付けていいものか、と思うのですが、社会が個性と認めるのであれば、それは個性になりうると思っています。ただ、当人、家族以外にとっては、場面緘黙症や発達障害の子どもたちは異端とみなされ、今の社会では差別され、苛めの対象となりやすいです。
心療内科の医師が個性と言ったのは、あながち的外れなことではなくて、場面緘黙症や発達障害だけでなく、ろうあ者やその他の障碍者たちも含めて、差別の対象ではなく個性として認められる社会こそが、目指すべき社会なのだと思います。場面緘黙症の人たちは、声が出せない分、人一倍努力してきたはずです。実直な性格の人が多いはずです。声が出せないことに焦点がいきがちがですが、こうした面にも光が当たり、個性として輝ける日がきてほしいと思います。
面接で向いてないと言われたけど。
ブログに載せるイメージ写真を探していたら、なぜだかこのおばさんの写真が気になってしまった。笑ってる?のだろうか。泣いてるようにも見えるし、不思議なインパクトのある写真。人生の悲喜こもごもが写真へとにじみ出たのだろうか。
先日受けたある面接の時に、「○○には向いてないんじゃないの?」と言われてしまいました。なんと、単刀直入な!その時は、うまく取り繕おうと変な自己アピールをしてしまったけど、少ししてから、胸のつかえが下りたような気がしました。
いっちょ前に転職エージェントに登録しているのですが、そこの担当の方がすごくいい人。紹介案件以外の面接の相談とか、アドバイスとかしてくれます。なので、その人に恩義を感じ始めており、あまり興味のない職種なのに、応募から面接まで義理で進めてしまいました。それと、あんまり紹介案件を断りすぎるともう紹介してくれないんじゃないかという恐れもあったりします。
そんな状態だったので、面接の前日は緊張+行きたくないという拒否反応で、精神がドロドロしていました。ところが、実際に面接に臨もうとすると、パンフレットを読み込み、ホームページをくまなくクリックし、企業研究にも余念がなく、面接でも必死に笑顔を作っています。生真面目というか、よく言えば秀才タイプな自分に嫌気が射します。
面接は、ずらりと並んだ役員を前にして行われ、終盤に「向いてないんじゃないの?」の一言が放たれました。それも社長の口から。その場、そして、その後しばらくは、落ち込みましたが、今振り返ると、「向いてないんじゃないの?」に対しては、「そうなの!向いてないんだってば!!」と言い返したいくらい。まだ結果通知は来ていませんが、たぶん落ちてるだろうな。私も笑いたいのか、泣きたいのかわからない気分です。
面接で言われる「もったいない」にうんざり。
就職活動をしていて、面接で最近よく言われる一言「もったいない」。この言葉を聞くと、もうここはないなと思ってしまいます。私が優秀すぎる訳ではない。体のいい断り文句です。
先日、合同面接会に参加した時も、履歴書と職務経歴書を渡したら、ウチにはもったいないと言われました。それでも粘ったら、心当たりがあるからダメもとで電話してみてあげる、とのこと。その時はなんて優しい人がいるのかと、有頂天になって帰りましたが、その後、なんの音沙汰もありません。うまいこと言って厄介払いされたのかもしれません。こういう地味なことが意外と傷つきます。自分が情けないというか...。
人事の人は「もったいない」をどんな意味で使っているのか。断り文句なのか、本心なのか。本心なら他を紹介してくれ!断り文句なら尚のこと、他を紹介してほしい。もう自分が良い人になるために、「もったいない」なんて言葉を使わないでほしい。
田舎にしては、まあまあ学歴がある。前の職場でも実績を重ねてきた。自負があるからこそ、「もったいない」に踊らされてしまいます。よくよく考えたら、大抵のもったいないものたちは捨てられるから、もったいないのだ。使えるけどいらないのだ。労働市場において、「もったいない」けど捨てられる。どうかそう言わずに私を使ってください。
一人は泥を見た。一人は星を見た。
日が沈むと何故だか別人のようにポジティブな人間になります。きっとこっちの方が本当の自分。朝の自分は何者なのだろう。
夜も更けて21時を過ぎるとさらに気分は軽くなります。どうしたんだろう。気持ちが軽い。無職なんてどうでもいい。何とかなるさ!って気分になります。人って不思議ですね。
気分も軽くなってきたところで、本題に。私の思春期の人格形成に深い影響を与えた漫画作品があります。それは、「ジョジョの奇妙な冒険 第6部 ストーンオーシャン」です。高校生の当時、週刊少年ジャンプで連載中でした。ジョジョシリーズの中で、唯一の女性主人公、ジョリーンがちょうど当時の私と同じ年代ということで、ジョジョにハマっていました。
私はジョジョの奇妙な冒険に熱を上げていたわけですが、独特の画風によりジョジョは当時のジャンプの中でもあまり人気のない部類、どちらかというとコアなファン向けの作品だったと思います。それは、私も十分に感じていて、クラスの中で大きな声でジョジョが好きとは言えない雰囲気がありました。当時はワンピースやナルトが連載をスタートさせて間もないころで、圧倒的にこちらの作品の方が人気があったのです。
しかし、私も誰かとジョジョの素晴らしさを共有したくなります。そこで、クラスの中でもアニオタ気味な女子に話をしてみました。「ねぇねぇ、ジャンプ読んでたよね。ジョジョって読んでる?」彼女は少し表情を曇らせてこう言いました。「ジョジョはちょっとね...。好きな人は好きみたいだけどね...。」彼女は、エヴァンゲリオンについて目を輝かせて話すようなオタクでした。今でこそ市民権を得ているエヴァも当時はアニオタの代名詞でした。しかし、ジョジョはそのアニオタにさえ拒否されていたのです。
ジャンプは弟が買っていたものでした。私自身は漫画がそこまで好きではありません。アニメもほぼ見ません。そんな私でしたので、当時は、エヴァにハマるようなオタクに対して偏見を持っていました。(今は偏見はありません。エヴァファンの皆様ごめんなさい。)しかし、そんなオタクにジョジョはやんわりと困り顔で否定されたのでした。
これ以降、私はアメトーークでジョジョ芸人によってジョジョが市民権を得始めるまで、ジョジョ好きを封印してしまいました。言ったら最後、変態だと思われかねない。難しいお年頃の高校生だった当時、そう誓ったのでした。
さて、前置きが長くなりました。本当に本題に入ります。「ジョジョの奇妙な冒険」は第一部から第六部まであります。そして、シリーズの最初と最後、第一部と第六部に、微妙に表現は違うものの、共通した一節の詩が出てきます。フレデリック・ラングブリッジの「不滅の詩」の一節です。
二人の囚人が鉄格子から外を見た。
一人は泥を見た。
一人は星を見た。
Two men look out through the same bars:
one sees the mud, and one the stars.
この詩を受けて、第六部の主人公、空条徐倫はこう言います。「私は星を見るわ」ジョジョの奇妙な冒険第六部のテーマは希望です。そして、たくましい精神力で、希望を捨てない徐倫の姿が第六部の見所です。思春期の頃の私は、この徐倫に自己投影し勇気づけられていました。今日、何となくそのことを思い出しました。星を見ることを忘れていないか、という潜在意識からのメッセージだったりして。
心療内科医。笑顔で「大丈夫」私「...はい。」
午前中に心療内科に行ってきました。レクサプロが一錠増えました。今日からリフレックス3錠+レクサプロ2錠、睡眠薬ロゼレム1錠の処方です。増えていく薬の量に不安を感じます。
いつになったら、薬を減らせるのか。今日、心療内科で診察中に、前と同じくらい辛いと言ったら、「大丈夫。就活中で面接したり通知待ちしてて、普通の方がおかしい。これで食欲があったら、抗うつ薬が利きすぎてるってことになるからね。」と笑顔で返されました。そう、就活のストレス、無職の引け目が辛いのです。でも、笑顔で大丈夫なんて言われたら、もうそれ以上話せない弱気な自分。ここはもう、「はい」と言って引き下がるしかありません。
心療内科の先生曰く、食欲が落ちてても睡眠がとれてるなら、大丈夫らしいです。確かに夜は気分がよくなるし、睡眠薬なしでも寝付ける日の方が多いかも。「脳の機能としては問題ない、原因は心因性のものだから、きっと就職が決まればよくなる、あなたもわかってるでしょ。」と言われてしまいました。私もそれは感じています。
一応、相談してるので、共感とかしてほしいのですが、このお医者さんは、うつには縁遠いカラッとした性格で、いつも笑顔で「大丈夫」と返されてしまいます。他の心療内科や精神科の先生ってどうなんでしょう。なんかもうちょっと話を聞いてくれそうな気がするけど、他に行ったことがないからわからない。
私はねちねちした人や嫌味な人が苦手なので、こういう竹を割ったような性格の先生に会うと、内科医にしろ皮膚科医にしろ、そこに通うことが多いです。なので、いつもこんな感じの診察で、さっさと終わってしまうのだけど、まぁ別にいいかと思ってしまう。「考えすぎ。大丈夫。大丈夫。」そう言われて、今日も診察室を後にしました。
またご飯食べれずで、体重が落ち始めてるけど、確かに眠れてるなら大丈夫かな。深く考えすぎないこと、きっと大丈夫。
緘黙症の後遺症?頑張らないと受け入れられてもらえない。
昨日は、どん底に落ちた気分でしたが、少し回復しました。今日は、朝の不快感も少しましです。昨日書いたブログを再度読み返してみて思ったのですが、改めて私は自己評価が低く、甘え下手な性格だと。「誰かに依存したくないという思いが人一倍強い」と書いていました。その通りです。弱みを見せるのが嫌い。いつも完璧、涼しい顔して生きていたい。
でも、これってとても苦しい生き方です。最近、このことに気が付きました。ただ、わかってはいても、そこから脱することができません。自己評価が低く、ありのままの自分では、誰かに愛してもらえるはずがないと思っているからです。
私は幼少期、場面緘黙症でした。場面緘黙症だったことで、気味悪がられ、幼稚園では苛められました。苛めても反論しないし、先生にチクることもできないから、ますます苛めれます。そうすると人が怖くなり、信じられなくなります。
場面緘黙症で苛められなかったなんて人はおそらく皆無ではないでしょうか。普通にしているだけで苛められるのですから、自己評価は下がって当たり前です。愛される価値のない自分、声も出すこともできない惨めな自分。場面緘黙児たちは、そう思いながら、幼稚園や保育園や小学校で過ごしていると思います。
愛されるにはどうしたらいいでしょうか。勇気を出して、努力して、声を発するしかありません。一度きっかけを得て、声が出るようになった後も、友だちになってもらうために、勇気を振り絞って挨拶したり、努力して会話の取っ掛かりを探したりします。誰かと仲良くなるためには、「努力あるのみ」なのです。
そうして努力して人間関係を築けるようになった元場面緘黙症の大人たちは、その後も友人を作るには、恋人を作るには、努力が必要だと思い込んでいます。しかし、よくよく考えてみると、周りの人たちはいとも簡単に努力なんて必要なしに気軽に友達になったり、恋愛関係になったりしています。私はこんなに気を使って、努力して、我慢を重ねているのに!
何だか長くなってしまいましたが、私が言いたいのは、場面緘黙症だった人は、人に対する恐怖心があり、それを乗り越える勇気が必要だったり、我慢や努力を重ねたりして、やっと場面緘黙症を克服し、人間関係を築けるようになったのだと思います。だから、誰かと仲良くなるには、受け入れられるには、愛される価値のある自分を作り上げる努力や我慢を積み重ねるものだと思い込んでいるところがあると思うのです。努力して初めて人間関係を築けた経験があるのだから、そう思わざるを得ません。
私は、外ではめったに怒りません。いつもしっかり者で落ち着いていると言われます。でも、心の中ではいつも激しい感情の起伏に惑わされ、それをコントロールするのに必死です。ここで怒ったら嫌われる、とか思ってしまうのです。頑張らないと愛される価値のある自分でいられない。頑張らないと受け入れられない。こういった思い込みから脱することができれば、もっと楽に生きられるのに、と思うのです。
「誰かに依存したくないという思いが人一倍強い」逆もまた然りです。私は、人並み以上に誰かに甘えたい、愛されたいという欲求が強いと思っています。世の中には好き勝手に生きて、それが魅力となり、愛されている人がたくさんいます。いつか自分の感情を解放してあんな風に生きてみたい。
うつになって。母に甘えたい。
今朝も強い恐怖感で目覚めました。毎日、朝の4時か5時くらいに一度目を覚まします。その時は、不思議と不安感や焦燥感は薄いです。一度目を覚ますのですが、うつらうつらしながら、また二度寝に入ります。そうすると1時間後とか2時間後に、強い不安感が襲ってきて、恐怖で目が覚めます。ここ数日は、この不安感がとてつもなく、本当に恐怖感と表現した方が適切です。
2週間前は、次の診療までに薬を減らせるようになるんじゃないかと思うくらいにうつが回復していました。ほぼ一日中不安を感じない日さえあったのです。それなのに、今はほぼ一日中不安に苛まれています。
自分でもそんな事しても何にもならないとわかっているのに、昨日は嘔吐を繰り返していました。朝も昼も何も食べていないのに、吐けば気持ちがすっきりするような気がして、喉に指を突っ込んで吐いていました。吐けるものが胃の中にないので、結局吐き出せないのですが。
もうひとつ自分でも病的だと思うのが、母に甘えたいという気持ちが強くなったことです。今朝も自室から出て、母に抱きしめてもらいたい一心で、母のそばにいました。母は仕事をしているので、バタバタとしていて、心配して声はかけてくれますが、それ以上のことはありません。生粋の日本人の家庭である我が家にはハグをする習慣などないので、自分から言い出さなければ、抱きしめてもらうことなどできません。
30過ぎたいい大人が、あまりの辛さに母に甘えたいと思っているのです。うつになる前の自分なら、気持ち悪いと思うに違いないですが、本気でそう願っているのです。本当は夜も母に添い寝してもらいたいくらい心細いです。
誰かに依存したくないという思いが人一倍強い人間だったのに、それが一度折れてしまうとこうなるものかと、自分でも情けなくなります。誰かに甘えたい、辛い気持ちを打ち明けたい。それが出来ずに、こうやってブログに書き綴っています。
場面緘黙症を知ったきっかけ。
私が、「場面緘黙症」のことを知ったのは、『ザ!世界仰天ニュース』という日本テレビの番組を見たからです。4歳から10歳まで、私は家族以外の前で声を発することができずにいました。しかし、この症状に「場面緘黙症」という名前がついているとは、その時まで知りませんでした。
番組が放送されたのは2013年の2月。私が場面緘黙症を克服してから10年近くが経った後のことです。信州かんもく相談室の代表者、長野大学の高木准教授によれば、場面緘黙症の発症率は0.2%ほど、500人に1人の割合です。私が通っていた小学校は全校生徒が600人弱でしたが、私のように声が出せない児童は、他にいなかったように記憶しています。そのくらい稀な症状の様です。
発症する人が稀という事は、「場面緘黙症」を知っている人も少ないわけで、自分自身がそうであったにも関わらず、その症状を指す名前があったことを知らずに過ごしてきました。90年前後の当時、私に関わった教育関係者も場面緘黙症について知っていたのでしょうか。少なくとも親戚や近所の人など、周りにいた大人たちは知らなかったと思います。
写真の女性は、カースティ・ヘイズルウッドさん。『ザ!世界仰天ニュース』で「静かな少女の秘密」として紹介された女性です。カースティさんも私と同じく、幼稚園への入園をきっかけに場面緘黙症となり、その後、克服され、モデルとして活躍、なんとミスイングランドにまで選ばれています。
カースティさんが場面緘黙症を脱するきっかけとなったのは、家での様子を撮影したホームビデオを学校で流したこと。当時の私がそんなことされたら、もう学校へ行けなくなっていたかもしれません。でも、カースティさんは、それをきっかけに少しずつ場面緘黙症を乗り越えました。きっかけは人ぞれぞれ。いろんな人がいるのですね。
まだまだ知られていない場面緘黙症ですが、カースティ・ヘイズルウッドさんのように場面緘黙症だったことを公表して、活躍される方が増えれば、理解が深まっていくのではないかと思います。私は、大人になってからの友人たちには、場面緘黙症だったことをほとんど話していません。話すきっかけがないというのが一番ですが、克服したものの場面緘黙症の後遺症とも言うべき感情(人に対する恐怖心)がまだ残っていて、そうした弱みを大勢の人に晒すことが出来ないのです。だから、言わなくてもいいことを公表して、場面緘黙症への理解を広める活動をしていることは、すごく立派だと思います。職業柄、それで売名できるというのもあるとは思いますが、それを差し引いても私にはとてもできません。ちなみに場面緘黙症は英語で"Selective Mutism"だそうです。カースティさん、頑張って!地球の反対側から応援しています。
カースティ・ヘイズルウッドさんのフェイスブックとツイッターはこちら。
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場面緘黙症だった頃。一歳上の姉。
私には、一つ年上の姉がいます。誕生日は数日違いなので、私とはちょうど一歳違う姉です。物心ついた時から、おままごとをしたり、絵を描いたり、かくれんぼしたり、いつも一緒にいました。
姉は、丸くて大きな目のくるくるしたくせっ毛がかわいい女の子でした。本人にとっては、コンプレックスのようでしたが、色白で外国人の様な見た目の姉は、子どもの私から見ても、とてもかわいく、自慢の姉でした。どこに行っても周りの大人たちは、みな姉を褒めるので、私は見た目に自信がなくなったくらいです。私は、髪の毛がまっすぐで、目も切れ長で、おかっぱ頭にしていたので、こけしのような風貌でした。
かわいい姉でしたが、性格は気が強くて私はよく泣かされていました。「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの。」ジャイアンの名台詞を地で行くような性格で、姉が買ってもらったおもちゃを貸してもらおうとしても、頑として貸してくれませんでした。そんな姉ですが、私と性格が似ているところもあって、外では大人しい内弁慶タイプだったりします。
幼稚園に入ると、私は場面緘黙症になり、外では一言も声を発することが出来なくなりました。声を出さない変な子は、幼稚園のクラスですぐに苛めにあうようになります。周りを取り囲まれて悪口を言われたり、お絵かき帳にいたずら書きをされたりしました。「なんで話せないの!」「気持ち悪い!」子どもの言葉は、真っ直ぐで残酷です。私は泣いてしまいました。
突然泣き出した子どもに気が付いた保育士の先生は、訳を訪ねますが、私は答えることができません。「泣いてばかりじゃダメじゃないの。赤ちゃんじゃないんだから、ちゃんと答えなさい。」そう言われても、声が出せないのです。伝えたいのに、伝えられないもどかしさで、ますます涙が止まらなくなりました。
その様子を姉が遠くで見ていて、家に帰ってから姉に問い詰められました。私は「○○ちゃんたちが、私の悪口を言うの。」と答えました。「あぁ、あの釣り目の生意気な子ね!わかった。」そう言うと、翌日から、姉と姉の友だちが自由時間に私のクラスに来てくれるようになりました。再び私を取り囲んで悪口を言おうとすると、その間に入り、私を守ってくれました。
また、私は先生と頷きでしか、お話ができませんでした。なので、先生がどうしても詳しく知りたいことがあると、姉を呼び出して、通訳をしてもらうことがありました。少し離れたところに行って、私はこそこそと姉に話を伝え、それを姉が先生に伝えます。そんな調子で、私の幼稚園での一年目は、姉に頼り切って過ごしました。
姉には強情で意地悪なところがあって、私はいつも泣かされました。それでも、私は姉が大好きでいつもそばにいました。今でも、一番の親友は姉だと思っています。姉がこまっていたら、私は火の中でも飛び込んでいきます。姉に裏切られたとしても、私はそれでも姉を慕い続けます。大げさかもしれませんが、そのくらいに、私は幼少期に面倒を見てもらったことに恩義を感じています。
うつの焦燥感。
数日前から、うつの症状が強く出始めました。一番ひどいのが不安感と焦燥感です。朝目覚めるときに胸が締め付けられるような感覚とともに、強い不安感に襲われます。これがとても不快なのです。暑くもないのに、汗をかいていることも多いです。
数週間前までは、すごく調子が良くって、もう薬もいらなくなると思っていたのですが、そういうわけにもいかなそうです。3週間前にリフレックス45mgに加えて、サインバルタを飲み始めました。これが最悪で、飲み始めて3日後から、強い焦燥感と身体の火照り、胃の不快感が出てきました。身体的な副作用は耐えられたのですが、居ても立っても居られないような焦燥感に耐えられず、服用を中止しました。サインバルタに代わって、現在はレクサプロを飲んでいます。
もしかして、この焦燥感と不安感は、レクサプロの副作用なのかな、と思ったりもするのですが、どうなんでしょう。就職活動の焦りも大きいような気もするので、何とも言えません。まだ症状が安定しないのに、就活をするのが良くないとはわかっているのですが、そういう訳にもいかず、面接に行ったりしています。
主治医に相談するのが一番なのですが、レクサプロでもこういう副作用がでるのでしょうか。それと、朝起きてから昼過ぎくらいまでは、手足がふらふらして力が入らない時があります。めまいの手足バージョンのような感じで、ふわふわして自分の腕じゃないような気がします。これも薬の副作用なのか、それとも、うつから来る自律神経失調症の症状なのか、よくわからない症状です。
4日前から焦燥感が強く、イライラしてとにかく何かしていないと不安な状態です。土日はやることがあったので、何とかしのげましたが、昨日、今日は何もすることがなく、このブログを書いたりしてました。今、昨日のブログの内容を見ると、大分混乱していたように感じます。昨日も今日も、20時を過ぎてやっと焦燥感と不安感から解き放たれて、気分が落ち着いてくるような状況です。とりあえず、朝と昼はほとんど食べられませんが、夕食も何とか食べられるし、睡眠も薬に頼ってはいますが十分にとれているので(相変わらず変な夢は見ますが)前に比べればよくなってきてると思うようにしています。
場面緘黙症だった頃。担任の先生。その3
私は、場面緘黙症でしたが、少しずつ声が出せるようになりました。初めは授業での発言から。「○○わかる人~!」と先生が言うと、挙手をして小さな声で「○○」と一言答える。そんな感じでした。それでも、音読は苦手。友だちと話す場面では、声が出ませんでした。
そんな私が、クラスメイトと話ができるようになったのは、10歳の頃です。その日は体育の授業でグラウンドにいました。私たちは整列をしていて、走る順番を待っていたところでした。その時にクラスメイトの女の子数人が私の周りにいて、「ねぇ、なんで授業中は声が出るのに、私たちとは話せないの?」と聞いてきました。はっきり言って自分が一番わかりません。知っているなら、とっくに話せているのだから。ただ、この時はなじるように言われたのではなく、単に疑問に思ったから聞いてきただけのようでした。
その時、もう一人の女の子が「じゃあさ、『あ』って言ってみて。いつも授業では話せてるんだから言えるでしょ。」と言ってきました。周りは、おしゃべりに夢中だったり、走る人の姿を見ていたりして、こっちに注意は向いていません。私は、チャンスだと思いました。ここで、「あ」って言ったら、きっと話せるようになると。そして、勇気を振り絞って「あ」と言いました。蚊の鳴くような小さな声でした。私に話しかけた女子たちはビックリして、一瞬凍りついたように見えました。まさか話すとは思っていなかったのかもしれません。
一瞬の沈黙の後、その女の子は「ねぇ、もう一度言ってみてよ。」と言いました。私はまた、小さな声で「あ」と言いました。女の子たちは、私に耳を近づけて、その声を確認すると「なんだ、言えるんじゃん。」と言いました。その後は、「じゃあさ、『あ』って言えるなら、『い』って言ってみてよ。」と言われ、私は『い』と言いました。そんな感じで、「う」とか「え」とか「お」とか言わされ続けました。
体育の授業が終わって、茶色く錆びついた体育館脇の水飲み場で、水を飲んでいると、「ねぇ、ねぇ、先生。ととちゃんがね。声を出したんだよ。」と報告していました。先生は、にこにこ笑って、こう言いました。「そうだよ。ととちゃんは話せるんだから。」体育の授業が終わっても、そのことについて先生は私には、直接何も言ってきませんでした。ただ、見守ってくれていたのです。
私が子どもたち同士の輪の中で話せるようになるためには、先生の力を借りるのでなく、私自身が勇気を持たなくてはならないし、子どもたち同士で解決すべき問題だと、先生は思っていたのかもしれません。また、先生が「今日、声を出せたんだってね。」なんて言ってしまっては、私がプレッシャーに感じると思っていたのかもしれません。
その後も、「ねぇ、○○って言ってよ!」というごっこは続き、私は、「○○」と言い続けました。女の子たちは私を囲み、楽しそうにしていました。それを見て、私も楽しくなりました。ただ、リアクションの薄い子どもだったので、私も楽しいと感じていたことが、クラスメイトの女の子たちに伝わっていたかはわかりません。
「あ」とか「い」とか言えるようになったその日の内に、私は「うん」とか「ううん」も言えるようになりました。そうこうしている内に、小さな声でボソッとではありますが、質問されればきちんと声に出して答えられるようになっていました。私はずっと声を出したいと思っていたのですが、きっかけがなかったのです。
でも、なぜかあの日、私に興味を持った子がいて、私を場面緘黙症から引き出してくれました。これで、もうほとんどの場面で、声を出すことができるようになったのです。ただ、小学校を卒業するまでは、初対面の大人が苦手で、風邪をひいたりして、病院に行くときには必ず母か祖母が診察室まで付き添っては、「お母さんに聞いてるんじゃありませんよ。」などとたしなめられたりしていましたが。それでも、思春期になると急に家族が疎ましく感じて、自分のことは自分でできるようになり、初対面の大人ともそれなりに会話ができるようになりました。
振り返ると、やはり担任の先生の力がすごく大きかったと思います。意思疎通の苦手な子どもに根気よく接してくれたこと、自信を持たせてくれたこと、周りの子どもたちにも理解を求めたこと、感謝してもしきれないほど感謝しています。場面緘黙症で辛い思いもたくさんしたけれど、大きな愛に包まれて育ったことを本当に感謝しています。
場面緘黙症だった頃。担任の先生。その2
私が場面緘黙症から抜け出せたのは、周りが緘黙症だからといって苛められたり卑屈になったりしないように気を使ってくれたこと、そして、勉強がわかるようになって自信がついたことが大きいです。一年生までの私は、授業中はひたすら窓の外を眺め続けるような子どもだったので、自ずと成績は讃嘆たるものでした。
しかし、二年生になって担任の先生が変わったこと、授業に遅れていた私の勉強を何とかカバーするために母が公文に通わせてくれたことで、少しずつ勉強が楽しくなり、自信も出てきました。いつから人前でも話せるようになったのか、正直覚えていません。でも、クラスメイトと話ができるようになるより先に、授業で発言ができるようになったのが先でした。普通の子どもだったら、授業で発言するよりも友だちと話す方が楽なのに、不思議なことです。
もっと不思議なのは、授業での発言はできるのに、初めのうちは教室で音読することができなかったことです。うまく音読できない子は、放課後に教室に残って教科書を10回読む様にと言われた時に、声の出ない私も一緒に残させられたことがありました。私を特別扱いすれば、それこそひいきになるので、仕方のないことでした。私は、放課後、先生もいなくなった教室に残り、声は出ないけど、口だけはその発音の形に動かして、教科書を読み始めました。すると、一緒に残された男子たちが近寄ってきて、「声が出てなきゃ、音読っていわないんだよ!」と言ってきました。しかし、私はそれを続けるしかありません。男子たちより先に帰ったら、音読しないのに帰ったと言われかねません。私は、涙が出そうになりながら、必死で10回も20回も心の中で読み続けました。家に帰れば、誰よりもうまく音読できるのに。そう思うと悔しくて、そして、自分よりも音読が下手な男子たちが自分を非難するのが怖くて、涙をこらえながら、口を動かし続けました。
どうして、授業での発言はできるのに、音読したり、友だちと話せないのか。それは、きっと正解がない行為だからです。授業の発言には正解があります。はい、いいえ。2×2=4。でも、音読は上手いか下手。相対的な評価です。途中でつまづいたらどうしよう。イントネーションが変になったらどうしよう。そう思うと声が出なかったのかもしれません。友だちと会話するのも、こういったら嫌われるかも。変な奴だと思われるかも。そう思うと声が出ないのだと思います。
場面緘黙症になる子どもたちの根底には、不安障害があるそうです。場面緘黙症の人は、リアクションが怖いのだと思います。嫌われる、攻撃されるという不安、不確定要素。授業での挙手発言には、これがありません。勉強ができる子であれば、確実に正解を答えることができるのですから、一度経験してしまえば、その後も正答をしっていれば、声を出し、発言ができるはずです。
そんな訳で、私は授業での発言、音読、友だちとの会話の順に声が出るようになりました。授業での発言で一番初めに声を出したのは、いつだったのか、記憶があいまいで覚えていません。ただ、何かしらのきっかけがあったのだと思います。例えば、はい、いいえで答えられるような簡単な質問からだったのかもしれません。
授業での発言ができるようになってからは、私も積極的に授業に参加するようになりました。そうすると、先生がとても喜んでくれました。にこにこ笑って、「はい、ととさん」と当ててくれました。私は、小さな声で答えを言い、それを先生が板書すると大きな丸を書いてくれました。私は、自分が正解してうれしいことよりも先生が喜んでくれることの方がもっと嬉しかったように思います。少しずつ人前で声が出せるようになったのは、8歳の頃。お友だちと話せるようになるには、まだもうちょっとかかります。
場面緘黙症だった頃。担任の先生。その1
私が場面緘黙症から抜け出すことができたのは、小学校二年生から四年生までの担任の先生のおかげです。小学校一年生のときは、場面緘黙症な上に、忘れ物もするし、授業中はいつも窓の外を眺めているような問題児でした。こんな調子だったので、二年生に上がる前に担任の先生から特別支援学校への転校をすすめられ、母はとてもショックを受けたそうです。
いざ二年生に上がる時になると、担任の先生はこれまでのベテランの女の先生から、20代後半の女の先生に代わりました。新しい担任の先生は、子育てに悩む母に「特別支援学校へは行かなくても大丈夫。私に任せて!」と力強く言ったそうです。母は、私が外では一言も話せないこと、授業に参加しないことを心配していたので、とても心強く思ったそうです。
二年生からの担任の先生は、明るくはつらつとした人で、体育の授業の時以外は、いつも長くてつやつやの黒い髪をおろしていました。教壇の横に置かれたオルガンを弾き時には、さらさらと揺れる髪が窓の光を反射してきらめき、一度も髪を伸ばしたころのなかった私は、密かに先生の長い髪に憧れていました。怒ると怖いけど、すぐに笑顔になってにこにこ笑いかけてくれる先生でした。一年生の頃にはクラスで苛められることもありましたが、二年生になると少しずつ周りが優しくなり、他のクラスの児童たちから守ってくれるようになりました。きっと先生が、私にそう接するように指導してくれたんだと思います。
先生は、クラスの中で表彰の制度を作りました。「忘れ物がなかったで賞」とか「あいさつができたで賞」とか、そんな賞をたくさん作って、表彰された生徒は手作りの紙でできたメダルがもらえました。ピカピカの金色の紙がついたメダルがうらやましかったのを憶えています。私は、忘れ物も多かったし、声を出せないからあいさつもできなかったから。
先生は褒めるのがとてもうまい先生でした。私は、今でもそうですが、やり始めると止まらないところがあります。寒い冬の日の掃除の時間、私は水飲み場の掃除をしていました。他のクラスメイトの男子たちはいつも掃除が終わって、廊下で遊び始めていました。しかし、私は、なぜかその時、掃除に熱中していました。気づくと廊下に先生がいて、遊んでいたクラスメイトたちを叱りつけました。そして、「ととは水が冷たいのを我慢して、手を真っ赤にして掃除をしているのに、どうしてあなたたちは遊んでいるの?」と問い詰めたのです。
その男子たちは、いつもやっている掃除はすでに終わってしまったので、遊んでいたのです。しかし、私は水飲み場に図工の時間に使った絵の具がこびりついていたのを発見して、なぜか急に熱心に掃除を始めただけだったのでした。たまたま私が気まぐれに念入りに掃除をしたことで、男子たちは怒られたのですが、私には説明することができません。とても申し訳ない気持ちになったのを憶えています。男子たちがしぶしぶ掃除用具を取りに行くと、先生は私に「みんなが嫌がる仕事を率先して、こんなに一生懸命頑張るなんて偉いね」と言って誉めてくれました。日頃からぼーっとしている私は自分が誉められたことを理解するのに時間がかかりました。しばらくして、それに気が付くとじわじわとうれしい気持ちが湧きあがってきました。
それ以降、私は掃除を一生懸命やるようになりました。そうすると、学期末の通知表には「ととさんは、皆が嫌がることを率先してします。誰よりも掃除を一生懸命やっています。」と書いてありました。母はすごくうれしそうに、何度も何度も通知表を眺めているのを見て、私はもっとうれしくなりました。
冬の日の掃除の一件のように、先生は他の児童よりも私を心配して見守ってくれていたようです。私が苛められていないか、反論できないのをいいことに利用されていないか注意を払ってくれていました。そんな状態だったので、クラスメイトの中には、先生はひいきするから嫌いと言っている子もいました。場面緘黙症が治って、話せるようになったころに「ととちゃんは、ひいきしてもらってる方だからわからないよ」と言われ、それから何となく、先生を疎ましく嫌いだと思い込むようになりました。やっと話せるようになってできた友だちを失いたくなかったし、そろそろ思春期が近づいてきていたのかもしれません。
それまで大好きだった先生を何となく遠ざけはじめたのは、私が場面緘黙症を脱して先生の元から自立しようとしていたのでしょうか。今となっては、どうしてそんな感情を持ち始めたのかわからなくなってしまいましたが、私は先生を信頼していたし、大好きだったのを憶えています。
場面緘黙症だった頃。公文の先生。
私は、幼稚園に入るとすぐに場面緘黙症となり、小学校5年生のころに、やっとクラスメイトと話ができるようになりました。幼稚園や小学校ではほとんど友達ができず、ひたすら本を読んで過ごしていました。そんな子どもだったので、勉強はできたかと言えば、全然だめでした。
本は読めても、文字を書くことは苦手だったし、算数は全くダメでした。小学校一年生のときには、小テストがほぼわからず白紙で出したこともありました。そこで、小学校一年生にして追試を受けることになったのですが、私はテストの前にドリルを復習して、前よりも空欄を埋めて提出しました。たぶんほぼ空欄はなく、7~8割がたは正解していたと思います。私は先生に褒められるとばっかり思っていました。しかし、先生はこう言いました。「もう少し頑張りましょうね」と。6歳の私は、とてもがっかりしました。
それ以降、私は学校での勉強への意欲をこれまで以上に失いました。元々マイペースだった私は、さらに協調性を失い、学校へ登校して、窓際の席に座って、日がなグラウンドを眺め続けました。ノートも気まぐれに取るくらいで、グラウンドを横切る野良猫を観察する方が楽しかったのです。
泣いたりわめいたりしないだけましですが、はっきり言って問題児です。友達は作らない、声は発さない、勉強もしない。私が新米教師だったら、毎日泣いていたかもしれません。そんな状態だったので、一年生の担任の先生は、私が二年生に上がるときに、特別学校への転校をすすめてきました。
結果的に、二年生になるときに担任の先生が変わり、転校は免れました。この辺のことは前に書いた通りです。二年生に上がるころに、私は公文に通うようになりました。勉強ができないことを心配した母が、私を公文に通わせるようにしたのです。私には、一つ上に姉がいて、この姉と一緒に通い始めました。
公文では、一年生だからこの内容を勉強するというのではなく、生徒のレベルに合わせたプリント教材を使っていました。今もこのシステムは変わっていないと思います。私は、二年生でしたが、幼稚園生か一年生がするような内容から始めました。1から50までの数字が書かれた丸いマグネットを、同じく1から50までの数字が書かれたマグネット板にくっつけていくというのを毎回していました。先生がストップウォッチで何秒かかったかを計ってくれました。前より早くできると、「この前より早くできたね」と誉めてくれました。帰り道に、姉は「あんな幼稚園の子がするようなのやって。本当にバカだよね。」と言ってきましたが、私はちっとも気になりませんでした。
さらさらとしたボブカットに丸くて大きな眼鏡をかけた公文の先生は、母よりも少し年上で、落ち着いた控えめな印象のする女の先生でした。いつも膝丈のフレアスカートを履いていて、ゆっくりとした声で話してくれたような気がします。私は、首を縦に振ったり、横に振ったりするだけでしたが、優しくそれに応えてくれました。プリントの宿題を毎回忘れても、少しも怒らず、今度は宿題を出さずに教室での勉強だけでカバーできるようにはからってくれるような先生でしたから、よっぽど忍耐強くて優しい人だったのだと思います。
公文の教室は、いつも静かでプリントをめくる音や時々先生の話声がするくらいで、生徒の息遣いが聞こえるほどでした。私は、普段はぼーっとしているのに、過集中するタイプで、静かな公文の教室が好きでした。公文が嫌いにならずに小学校を卒業するまで通い続けられたのは、やはり先生によるものが大きいと思います。
公文に通いはじめて、そして、担任の先生が変わって、私はメキメキと成績を伸ばし始めました。高学年になる頃には、もう姉に成績が悪いことを揶揄されることもなくなっていました。私が場面緘黙症から脱せられたのは、この二人の先生によるところが大きいと思います。
公文の先生は何をしたという訳でもないのですが、私にとっては成績が良くなって自信がついたことが場面緘黙症の克服に重要な役割を果たしたように感じていて、やはり学校の授業だけでは、私は勉強についていけなかったと思っています。私は、場面緘黙症で大人しいかと言えば、内実は気が強く、反抗的なところのある子どもだったので、そんな私を見守ってくれて、勉強に興味を持って取り組める場所を作ってくれた公文の先生に、とても感謝しています。今でもお元気にしていらっしゃるのでしょうか。私にとっての恩師は、小学校二年生からの担任の先生とこの公文の先生です。
人生はコントロールできない。
前に「場面緘黙症を克服した人たち」というブログ記事の中で紹介した「場面緘黙症に生まれてよかった★」というブログに気になる言葉が乗っていました。
自分が「安全だ」と感じるためには頑張りすぎないことが大事だと思います。自分を責める人は、自分が人生の舵をとりすぎて責任を過剰に背負いすぎていることが多いです。周りで起きる悪いことが全部自分のせいまたは人、環境のせいに感じているならその概念を取り外すことが、楽になるきっかけになるはずです。
「場面緘黙症に生まれてよかった★」
私には耳が痛くなる言葉です。だって、引き寄せの法則に頼って、人生の舵をとろうとしているのですから。矛盾することですが、私は引き寄せの法則を実践し続けます。そして、上の言葉も大事にします。
私は自意識過剰でナルシストなくせに、自己否定感が強く自分に自信が持てません。引き寄せの法則には、自分の可能性を信じることによって、自己肯定感を高めてくれる作用があると思っています。人には根拠のない自信が必要ですが、うつにはそれがなく、あるのは根拠のない不安だけだからです。
無理にポジティブになろうとしたり、思いのままに引き寄せようとしすぎたりすることは、うつを悪化させる可能性があります。そうではなくて、引き寄せの法則が持つ行動しなくてもいいから、いつもより少しだけ明るい気持ちでいるといった考え方や心の在り方がうつに効果的だと思うのです。矛盾したことを書いているので、自分でも混乱しているのですが、引き寄せの法則をつかって宇宙にお願いをしたら「手放す」というのは、それに囚われすぎてコントロールしようとしないことだと思うのです。
こうあらねばならない、こうすべき。うつの病前性格として完璧主義が上げられています。私はまったく自覚がなかったのですが、うつになって自分も完璧主義者であることを知りました。それでも、人生の舵を自分でコントロールするという事は、どだい無謀なことだと頭ではわかりながら、完璧主義から逃れられずにいます。手放すことがもっと簡単にできるようになればいいのに。
引き寄せの法則。駐車スペース。
はじめて一か月もたっていないこのブログですが、少しずつ訪れくれる人が出てきました。「うつ」や「引き寄せの法則」「退職」で検索して、訪れてくれる人が多いようです。私も精神の基調を崩し始めたころや、心療内科に通い始めたころ、何か救いになる情報はないかと思い、ネットで情報収集をしていました。
まだ、そうした方々のお役に立てるような情報を提供できていないような気がしますが、私が葛藤する様子や回復していく様子をお伝えし続けることで、何かの希望になればいいな、と思っています。「うつ」「引き寄せの法則」で検索すると、うつ病から回復して、アフィリエイトで生計をたてようとしている方のブログに当たります。それ自体はその人の生き方なので悪いことではないのですが、うつで休職・退職した大方の人は「普通の会社勤め」をして、社会復帰したい人がほとんどだと思います。私もそうです。就職活動をして、働き始める。そうした過程の一部をお伝えすることで、後にこのブログを訪れてくれる人のお役に立ちたいと考えています。
引き寄せの法則の存在を知ってから、まだ2ヶ月ほどです。実践を始めてからは1ヶ月ちょっとでしょうか。その中で、これは引き寄せたのではと思う出来事が出てきました。
それは、駐車場に車を止めようと思うとき、高確率でお店の入り口近くに止められるようになったということです。『ザ・シークレット』の中にも出てくる事例で、私も実践してみようと思ったら、空いているようになったのです。駐車場のスペースなんて、正直空いていようがいまいが関係ありません。遠くに止めれば、疲れるけど歩けばいいだけの話です。なので、本当に気軽な気持ちで始めたのですが、現実となりました。
毎週日曜日にスーパーに食料品の買い出しに行くのですが、いつも行くスーパーはエリアでも売上のいいスーパーらしく、日曜日や売り出しの日は、入り口近くに車を止められないことが多いです。ところが、最近行くといつも入り口のすぐそばが空いているのです。今日はダメかなと思っていても、車がスッと出ていき、そこに駐車できたりします。そのスーパーだけでなく、コンビニや他のお店でも入り口近くに駐車できるようになってきました。
小さなものから引き寄せられるようになるそうなので、あまり強くない願望の「入り口に近い場所に駐車する」が引き寄せられるようになったのでしょうか。引き寄せの法則を実践してはいますが、まだ心の中で完全に信じ切れていない部分があります。ただ、駐車場については9割くらいの確率で引き寄せられている気がします。今後、他のものも引き寄せられるようになってくるのかどうか、またご報告したいと思います。
いつか叶えたい夢
私には、いつか叶えたい夢があります。まだ漠然としていて、具体的ではないですが、それは自分で会社を持つことです。会社を持たなくても個人事業主でもいいです。とにかく自分で考えて、仕事をしてみたいと思っています。
前の職場を辞めるときに、「起業するの?」とか「会社始めたら雇ってよ。」とか冗談で言われました。自分では、いつかは起業とは思っていたものの、周りには一言も漏らしていなかったので、びっくりした覚えがあります。でも、冗談でもそう言われたという事は、適性があるのかしら、などとうぬぼれたりもしています。
このブログで、場面緘黙症だったこと、うつになったことを書きましたが、私は、精神的にタフなタイプではありません。自営業者になったら、自分で営業もしないといけないし、責任もとらないといけません。起業するにあたっての一番の心配事は自分のメンタルの弱さ、そして見栄っ張りで人に頼れないことです。ここが克服できれば、何とかなるかなと思っています。
今は精神的にまいっています。そして、資金もないし、事業の具体的なアイディアもありません。まだ、夢を実現する時ではないと思っています。まだまだ準備期間です。5年後になるのか、40歳のときか、50歳のときか、定年後か、タイミングがきたら、いつかは自分で仕事がしてみたい。夢の形はどうなるかわかりません。一人で起業するかもしれないし、誰かパートナーと組んで仕事をするかもしれない。まだまだぼんやりしていますが、こんな夢を持っています。
考えすぎとは、わかっているものの。
今日は、月曜日です。月曜日の朝は、大抵とても目覚めが悪いです。無職なので、仕事が始まるわけではありません。しかし、家族が仕事に出かけ、家の周りの工事の音や配達の音が聞こえてきて、無意識に無職である自分を責めてしまいます。週末は家族と一緒に過ごし、気も晴れていた分、余計にそう感じます。
今朝は、不安や焦燥感というよりも恐怖に襲われて、目が覚めました。不思議な嫌な夢を見ていたような気がします。夢だとわかりながら、うっすらとした意識の中で、次第に恐怖が大きくなり、目が覚めました。起きたら、汗をびっしょりかいていました。
夜になれば、建設的な考えができるのに、なぜか午前中は、不安に駆られます。考えすぎだとわかっているのに、どうしても止められません。金曜日に一社面接を受けてきました。あまり当てにしていない企業でしたが、書類通過し、SPIもWEB受験し、面接となりました。面接は午後からだったので、午前中は緊張と不安とでいてもたってもいられず、何とかウィダーインゼリーを流し込んだものの、すべて吐いてしまいました。
自分でも嫌になるほど、感情のコントロールができません。午後から、実際に面接に行ってみると、気さくな感じで和やかな職場でした。面接官と一緒に働く事になるであろう女性社員にしか会いませんでしたが、安心したというのが第一でした。面接から帰ると、急にお腹が減って、ご飯をバクバク食べました。さっきのは、何だったんだろうというくらいに。
その後、その日の夜までは気分よく過ごしたのですが、また、土曜日の朝にはどんよりしてしまいました。面接を受けた企業の仕事内容が、自分が望む仕事とはちょっと違うということ、そして、全国転勤があるかもしれないということ(転勤について、面接の時に詳しく聞こうと思っていたのに、聞けずじまいでした。聞いたら落とされるかもと思って、聞けなかったというのもあると思います。)、新しい人間関係についていけるかどうか不安になったこと、二次面接の通知待ちの緊張感が主な原因だと思います。
不安を紛らわすために、午後からは外出し、歩いて身体を動かしました。家に帰る間までは、不安や緊張感があったのですが、日が沈み、帰宅したころには気分が落ち着いてきました。仕事が望むものとは違うこと→やってみたら面白いかも。全国転勤→家族から自立するいいきっかけになるかも、その前に結婚すれば免れるかも。人間関係の不安→これまでも何とかなってきたから大丈夫。というような感じで、考え方の切り替えができました。
明けて日曜日の朝も、少し不安な気持ちで起きたものの、金曜日・土曜日に比べたら気分のいいものでした。ただ、午前中から夕方にかけて、緊張感や不安感、焦燥感が波のようにやってくる感じがしました。掃除をしたり、外出したり、夕食後には散歩したりしたのですが、あまり良くならず、眠りました。そして、今朝、不快な感じで目が覚めました。あまり覚えていませんが、夢の中に面接の会場がでていた気がします。そして、考え方が土曜の朝に戻ってしまいました。
金曜の夜から昨日にかけてアップしたブログはすべて自分を鼓舞するような内容だという事に気が付きました。またしても完璧を目指す癖が出てきています。自分は、神でもなければ、独裁者でもない。すべてを理想通り、完璧にしようとするのは止めよう。考えすぎだということは、自分でもよくわかっています。朝の自分が本当なのか、夜の自分が本当なのか、わからなくなることが多いです。
脳をだまして、感情をコントロール
一昨日のブログで、松岡修造について書きました。なぜなら、その日、テレビに出ていたからです。その番組内で、もうひとつ気になることを言っていました。「笑いながら寝る」のだそうです。嫌な事、むかついた事があって、頭が悶々とした時、無理やり笑顔の表情を作って布団に入る。そうすると、いつの間にか眠ってるらしい。
スタジオでは失笑が起きていました。こいつ頭おかしいんじゃないの?的な反応です。少しもおかしくない。ものすごく全うで、もしこの方法を自分で生み出したのなら、松岡修造はやはり只者ではない、と思いました。
それは、上の画像の女性、ボディランゲージのような非言語表現が人に与える影響を研究している社会学者、エイミー・カディ氏のTEDでのプレゼンテーションを思い出したからです。非言語表現は、他人への印象に影響を与えるだけでなく、表現をした本人の感情にも影響を与えることが、研究結果によって立証されているそうです。たとえば無理やりにでも口角を上げれば、楽しい気分になる。縮こまったポースをとると、ホルモンの分泌が変化し、ストレス耐性が弱くなるのだそうです。よくわからないという人は、四の五の言わずに下の動画をぜひご覧ください。
TEDの中でもお気に入りのプレゼンテーションです。有名なものなので、すでにご覧になっていた方も多いでしょう。過去に辛い経験をしたからこそ伝えられる真意というものがあると思います。小さな変化が大きな違いに繋がる。"Tiny tweaks can lead to big changes." 最後にこう言っています。
松岡修造さんは、感情の起伏が激しい内向型の人ではないかと、前々回のブログに書きました。内向型が陥りやすい思考の堂々巡りから脱するために「笑いながら寝る」のは、非常に理に適っていると思います。勝手な推測ですが、感情の起伏が激しい自らの性格に悩まされていた経験がきっとあるはずで、それをコントロールするためのひとつの方法として実践されているのではないでしょうか。
松岡修造さんもエイミー・カディ氏も、逆境を乗り越えて、今の地位を獲得したのだと思います。「小さな変化が大きな違いを生み出す。」「フリをしてれば、本物になる」きっと松岡修造さんも、この言葉に心を打たれるだろうな、と思っています。
信念を貫け!「逆説の十ヶ条」
今朝から、自宅のそばで、しきりにカッコウが鳴いています。カッコウと言えば、托卵の習性で有名ですね。カッコウは、モズなど自分よりも小型の鳥の巣に卵を産み付け、代わりに子育てしてもらいます。幼いころに、図鑑を読んで、この事実を知った時には、衝撃を受けたものです。
しかも、別種の巣に卵を産み付けるときには、元々あった卵を蹴りつけ、地面に落としていく。それに留まらず、そうして生まれたカッコウの雛は、まだ孵っていない他の卵を巣から突き落とすのです。卵から孵って間もない雛が全身全霊をかけて、初めて行う行為が、兄弟たちを殺すことなのです!なんてあくどい卑劣な鳥!!幼いころにそう思った記憶があります。
自然界は、理不尽なことの連続で、生き残るためには善も悪もありません。しかし、これは自然界に限ったことではなく、人間界においてもそうなのです。私はお人よしというか、バカ正直なところがあって、損をすることが多いです。世の中には狡猾な人や損得でしか動かない人がいることは、十分に分かっているのですが、どうも人の善意を疑うことができないのです。
そんな私にとって、励ましとも叱咤ともなる格言「逆説の十ヶ条」があります。ケント・M・キース氏が、19歳のときに書き出した言葉が、いつの間にか世に広がり、マザー・テレサを通じて世界的に知られるようになったそうです。損をすることがあっても、傷つくことがあっても、自分の信念を貫くことの大切さを教えてくれます。
逆説の十ヶ条
- 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。
- 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
- 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。
- 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
- 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
- 最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。
- 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。
- 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。
- 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。
- 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
The Paradoxical Commandments
People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway.
If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives. Do good anyway.
If you are successful, you will win false friends and true enemies. Succeed anyway.
The good you do today will be forgotten tomorrow. Do good anyway.
Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway.
The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds. Think big anyway.
People favor underdogs but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway.
What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway.
People really need help but may attack you if you do help them. Help people anyway.
Give the world the best you have and you'll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway.
考えろ!考えるな!
「考えろ!考えるな!」そう言われたら、戸惑います。さっき、テレビを見ていたら松岡修造が出ていて、松岡修造の謎のメッセージとして、この言葉が紹介されてました。確かに矛盾した謎のメッセージ...。
松岡修造にとって、何も考えないことは悪なのだろう。しかし、考えすぎて頭の中がぐるぐる回るのがよろしくないそうで、だから、考えるな、という事らしいです。考えないことはダメだけど、だからと言って考えすぎも良くないから、「考えろ!考えるな!」
私が思うに、松岡修造は、非常にセンシティブな人。意外に感受性が強い内向型な人ではないかと思うんです。通常、感受性の強い人は、感情の起伏が人よりも激しいから、幼少期に自分の感情をコントロールする術を身に付ける。それが行き過ぎてしまうと、私のように場面緘黙症になったりするわけです。
ところが、松岡修造の場合は、インプットもすごいけど、アウトプットもすごい。こだわりが強すぎる人の場合だと、抑えきれずに言動や行動に感情が出てしまう場合があります。私もそうなのですが、我慢が限界に達すると、堰を切ったように感情が爆発してしまいます。松岡修造の場合は、堰を切るハードルが低い、もしくは、ハードルが高かろうが軽々と飛び越えてしまってるかで、感情表現が爆発しているのではないかと思うのです。
この人のすごいところは、テニスの指導者として子どもたちを叱ったりしてますけど、負の感情を表には見せないというところです。松岡修造が怒っているように見える場面というのは、叱るという行為をしているときだけで、それは指導的立場として、ある種の演技や感情のコントロールの下に行われているように思います。つまり、テレビ画面を通しては、基本的に本気の怒りや哀しみは見せていないのではないかと思うのです。
私は、このブログをリアルの世界でつながりのある人には完全秘密で書いています。なので、何をどう書こうが全くの自由なのですが、それでも普段のくせが出て、良いかっこしいで前向きな事ばっかり書いてます。ブログの中でも感情を抑制して、温和で穏やかな人間を演じようとしているのです。松岡修造も自分と似た内向的で感受性の強いタイプの人間なのでは、と思うのはこの点なのです。
通常、感情表現の豊かな人というのは、喜怒哀楽すべての感情が平等に表出されます。しかし、松岡修造の場合は、喜と楽は表出していますが、怒と哀は表出されていません。私のような不器用な人間とは違い、喜と楽だけ感情のリミッターを外し、コントロールの外に出しているのではないでしょうか。
松岡修造という人は、こだわりが強くて、頭の中が絶えずぐるぐる回転していて考え込むタイプ、内向型の人間なのだと思います。努力型のネガティブ人間の性として生まれてくるポジティブ発言がブレイクしてしまい、世の中的にポジティブ人間としてのお面を被せられているのかもしれません。内向的な人は時として、思考に囚われ、後にも先にも進めなくなってしまいます。だから、内向型人間から出た言葉としての「考えろ!考えるな!」は、しっくりくるし、格言ともなりうる深い言葉です。ネガティブ人間の気持ちがわかるからこそ、彼のポジティブ発言は魅力があると思うのです。
おみくじが大吉だった。
毎年、お正月に初詣に行くとおみくじを引いています。今年は、大吉でした。でも、本当に大吉なの?ってくらい、ついてないことが多い気がしています。すぐに仕事が決まるかなと思っていたら、なかなか決まらないし、やっと決まったと思ったらダメになったり、ついでにうつ病になったり。でも、仕事が決まらないこと以外には、悪いことは起こってないし、まあ上々か、とも思います。
周りに心配をかけて、今までの人生の中でもありえないくらい落ち込んだおかげで、人のありがたさを身に染みて感じました。心配して連絡くれたり、逆にそっとしておいてくれたり。ダメな自分でも心配してくれる人がいることに気が付いて、家族愛にしろ、友情にしろ、人の善意を感じることができたのは、幸せなことだとしみじみ思います。
ところで、大吉のおみくじですが、願い事については、「半ばより安く叶う」と書かれていました。基本的には、年初に近所の神社でしかおみくじは引かないので、今年の半ばはもうすぐ、今が正念場であと少しで願い事=就職が決まる、と信じています。不安はたくさんあって、昨日は、あんなことを書いてしまったし、今日も午前中は泣いてしまいました。信じる者は救われる!きっとうまく行くから大丈夫。
悪いものを引き寄せてしまったの?
前のブログ記事をアップした10分後、悪い知らせが届いてしまいました。はぁ、がっかり...。直前のブログでうつの日内変動で、午前中の不安感がひどくて、それがPMSと第一志望の書類選考の結果待ちをしているのが原因では、と書いたのですが、ブログをアップして10分後、郵便屋さんがやってきて、ポストを開けたら、第一志望の企業から封書が届いていました。もちろん、内容は「貴殿のご多幸をお祈り申し上げます」です。書類選考を通過したら、電話で直接連絡が来ますからね。
封書を見た瞬間、身体がかーっと熱くなって、胃がむかむかしてくる感じがしました。今は、さらにその10分後で、気持ちは少し落ち着いてきました。一度だけ合同面接会でお会いした時には、結構いい感じで会話が弾んでいたのですけど、何となく男の人が欲しいのかなと思ったりしてたんですよね。今回は、ご縁がなかったってことだったのかなぁ。
ここ数日間、落ちたかも、落ちたかも、って思いながら、過ごしてたから、それを引き寄せてしまったのでしょうか。いずれにしても、気持ちを切り替えて、リスタート。午後からは、ハローワークに行ってきます。捨てる神あれば、拾う神ありって言うからね。
うつの日内変動について
心療内科への通院を始めて、2ヶ月が経ちました。ご飯も食べられるようになって、睡眠も十分にとれるようになって、気分の落ち込みもほとんどなくなりました。ただ、午前中の憂鬱感だけがまだ残っています。朝起きるときに焦燥感と不安感に襲われて、それで目が覚めるということはなくなったものの、やはり午前中いっぱい夕方くらいまでは、不安な気持ちがじわじわと残っていることが多いです。
一時期はそれも全くなく、気分よく過ごしていて、これで薬も減らせると思っていたのですが、ここにきて、また少し不安感がぶり返してきました。おそらく、PMS(月経前症候群)によるものと、今、第一希望の仕事の書類選考待ちをしているせいだと思います。今朝も変な夢を見て、肌寒いのに寝汗はすごいという不快な感じで目が覚めました。どうしたらいいのでしょうかね。気持ちの切り替えが上手くできるようになってきたかと思えば、これです。ただ、食欲もほとんど落ちていないですし、意欲もさほど下がっていないので、やはりPMSのせいかな、と思ってます。
前回、心療内科へ行ったときに、医師から日内変動の話をされました。通常では午前中にピークが来て夕方には下がる体内の活動のリズムがずれてしまい、うつ病の人はまだ身体が眠っている状態の時に朝が来て、目が覚めてしまう。そして、通常、活動のレベルが下がる夕方に、活動のピークが来るから夕方や夜は気分もいいし、体も動くのだと。あなたの場合は、日内変動が強く出ているから、午前中にお日様に当たるといいよ、と言われて、その通りにしているのですが、なかなかどうしてうまく行きません。
うつに焦りは禁物とはいいますが、焦るなと言われて、焦らないほど、人の気持ちはうまくできていません。うつに焦りは禁物、就職活動に焦りは禁物。言われれば言われるほど、辛くなったりします。このブログでは、なるべく前向きなことを書こうと思っていたのですが、愚痴になってしまいました。女性でうつ病の方は、PMSをどうやって乗り越えているのでしょうか。私は、うつ病になる前から、PMSでの気分の落ち込みがひどく、急に泣きたくなったり、死にたくなったりしてたので、結構つらいです。一時的なものとはいえ、困ったものです。
緘黙症を克服した人たち。
昨日は、私が場面緘黙症だったという記事を書きました。改めて場面緘黙について調べてみると、たくさんの場面緘黙症の方、元場面緘黙症の方がブログを書いていることを知りました。小さいころに場面緘黙症で克服された人もいれば、成人してもなお場面緘黙症と戦っている人も。元場面緘黙症の人でも、ブログを書いている方には、場面緘黙で苦しんでいる方の役に立ちたいという人、そして、克服したけれど後遺症で苦しんでいるという人、様々な人がいることも知りました。
場面緘黙症は克服したけれども、後遺症があるという方には、社会不安障害の方が多いようです。私もうつを発症しましたが、根底には社会不安障害があるのかな、と思ったりもします。勝手にブックマーク代わりに、場面緘黙症に関するブログをいくつか並べてみました。場面緘黙症に興味がある方の参考になれば、うれしいです。
「社会不安障害と向き合う」
元場面緘黙症の女性。社会不安障害についての記事が中心です。オーストラリア在住で、元緘黙症でもこんな風に活躍されている人もいるんだな、と勇気づけられます。
「場面緘黙に生まれて良かった★」
元場面緘黙症の女性。場面緘黙の他、中学生時代のいじめについての記事もあります。応援するブログ記事が多く、前向きな気持ちになれます。
「独身ですがママになりました」
元場面緘黙症のシングルマザー。母は強し。しっかり者ですごい!と思います。娘さんも場面緘黙症だそうで、保護者の立場としても場面緘黙症についての記事を書かれています。子育てに奮闘する様子も見えて、ほんわかした気持ちになれます。
場面緘黙症であっても、克服して、仕事を持って、結婚して、子どもを育てている方がこんなにいるなんて!私にとって、とても励みになる情報を、定期的に発信してくれるブログの主たちに感謝です。場面緘黙症についての理解がもっともっと広がって、周りのサポートが広まれば、場面緘黙症の方ももっと生きやすい世界になるといいな、と思います。
場面緘黙症だった。
私は、4歳から9歳くらいにかけての約5年間、場面緘黙症でした。場面緘黙症というのは、家族などとても親しい間柄の人たちだけの場面なら普通に話せるのに、そうじゃない場面、例えば、幼稚園や学校などでは、一言も言葉を発せないという症状のことです。(Wikipedia場面緘黙症)ただ単にシャイや人見知りというレベルではなく、外に出たら、全く声が出すことができなかったのです。
以前に、私は「ご縁について考える」というブログ記事の中で、大人しく病弱な子どもだったおかげで、幼稚園も小学校も優秀な先生が担任になってくれた、と書きました。正確にいえば、場面緘黙症で先生はもちろんクラスメイトともうまく意思疎通ができないせいでいじめられっ子な上に、ぜんそく持ちで入院したりする、とっても面倒で厄介払いされても当然な子どもだったのです。事実、小学校一年生の担任教諭は、母に養護学校への転校を進めたそうです。しかし、そうした提案をした先生はその方だけで、幼稚園と小学校二年以降の担任の先生たちは、強い使命感によって私を受け持ってくれたようです。
私が、場面緘黙症になったのは、幼稚園の入園式の日でした。私は、両親が共働きで日中は祖父母に面倒を見てもらっていたのですが、祖母がかわいい孫と一緒に過ごす時間が短くなるのは寂しいという理由で、本来年少から入園するところを年中から入園しました。もうこの時点で、察しのよい読者なら私が過保護に養育されたであろうことを予想したはずです。実際その通りで、過保護に育てれらた上に、すでに一年前から園児同志の人間関係ができている中に放り込まれた私は、緊張と怯えから声を発することができなくなったのです。
私は、今でもはっきりと、入園式で名前を呼ばれた時に誰よりも元気よく大きな声で「お返事」ができたことを憶えています。それにも関わらず、その後、お遊戯室から小さな教室に通され、自己紹介を促された瞬間から先、卒園式まで声を出すことができませんでした。他の園児たちから一斉に自分に向けられた視線に恐怖を感じ、声が出せなかったのがきっかけ場面緘黙症になりました。入園式までの私は、運動神経は悪いものの活発でお転婆な子どもでした。しかし、入園式の後の私は、物静かな誰とも打ち解けられない子どもになってしまったのです。
耳は聞こえていて、理解できているようなのに、リアクションもほとんどなく、声を発さない子どもというのは、同じ子どもから見て、異質で気味が悪かっただろうな、と今では思います。幼稚園では、当たり前のように苛められ、その理由も先生に言えず、ただ涙を流したりしていました。友達もほとんどできず、私は自由時間のほとんどをひらがなで書かれた図鑑や絵本を眺めて過ごすことが多かったように思います。
小学校に入ってからも、相変わらずで、転機は二年生になって担任の先生が変わった時に起きました。小学校一年生の担任は、定年間近のベテランの女の先生で、私が言葉を発さないこと、そして、授業にまったく関心がなく、ひたすら窓の外を眺め続けていることに限界を感じたらしく、二年生からは特別養護学校へ転校したらどうかと薦めてきたそうです。母は非常にショックを受けたそうですが、二年生になるときに担任の先生が変わり、若くてやる気に満ちあふれたその先生は、「私に任せればきっと大丈夫」と太鼓判を押し、私はぎりぎりのところで転校を免れました。
緘黙症がそれほど世間で認知されていなかった当時、もしかしたらベテランの先生とは逆に、若い先生の方が緘黙症についての知識を持っていて、その差がこうした結果になったのかな、とも思います。だからといって、一概にベテランの先生が無知でやる気がなかったとは批判できず、私が無気力で、反抗的な態度をとっていたのも事実ではあります。他にも忘れ物が多かったり、遅刻癖があったり、ADHDないし、ADDだった可能性もあると思います。母は、絶対に発達障害ではなかったと言ってはいますが。
そんなこんなで二年生になってからは、無気力で集中力のない私に新しい先生は、手取り足取り教えてくれて、私の成績は少しずつ良くなっていきました。ついでに、公文に通い始めたことも大きかったと思います。公文の先生も優しくて、集中力がなくて声も出せない生徒に根気強く接してくれました。本当に頭が上がらないくらい感謝しています。
私に少しずつ自信がついてきたこと、そして、担任の先生の計らいで、私が苛められず、むしろ気を使ってクラスメイトが接してくれるようになったことで、私は四年生頃には授業中であれば、声が出るようになっていました。その頃には、私はクラスでも上から数えて数人の頭のいい子になっていて、授業で答える分には、「間違えない=恥をかいたり、批判されない」という安心感があったのだと思います。その後も、少しずつ積極性ができて、五年生の頃には、クラスメイトとも話ができるようになり、大人しいけど普通の子レベルになりました。
その後も人間関係を築くのが苦手で、学生時代は一人でいたりすることも多かったのですが、荒治療とも言える企業に就職したおかげで、友人も増え、まともなコミュニケーションが取れるようなりました。今は、プライベートでは内向的でおとなしい人ではあるけれども、仕事となれば積極的に人と関わることのできる人になりました。ただ、緘黙症の頃の後遺症が全くないとなると嘘になると思います。今でも、対人恐怖はありますし、今回、うつになったのも無関係ではないと思っています。
そうかといって、場面緘黙症が私の人生にとって悪いものしかもたらさなかったかと言われれば、そんなことはないと思います。私が特殊な子どもだった事で、両親、親戚、近所の人、教師など、私を取り巻く大人たちのほとんどが、私に注意を払い、見守ってくれたことで、普通の子よりも大きな愛を感じて育つことができたと思っています。人生のある一点まで、私は世の中の人はみんな自分を嘲笑したり攻撃してくるのではないか、という恐れを抱いていましたが、今では、世の中の人は基本的には好意をもって接してくれると思えるようになりました。傷つくことが多かったおかげで、他人の痛みを理解することもできるようになりました。もし、場面緘黙で悩んだり、苦しい思いをしている人がいるのなら、そして、場面緘黙の子を持つ親御さんで心配が絶えないという方がいるのなら、そんなに悪いことだらけでもないんじゃないかな、と伝えたいのです。
格言「思考に気をつけなさい」
昨日は、『ザ・シークレット』の感想の記事を書きました。ザ・シークレットでは、過去の成功者や偉人が密かに実践していた、あるいは知っていた「秘密」こと、「引き寄せの法則」について書かれた本です。そして、その引き寄せの法則の実践者のひとりとして、ザ・シークレット内にマザー・テレサの名が登場します。
マザー・テレサの格言の中で、気に入っていたものがあったので、それをご紹介したいと思っています。まさに、引き寄せの法則の実践者にふさわしい言葉だと思い、思い出しました。ご紹介と言いつつ、実際には単に私にとっての備忘録だったりするわけですが...。
Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words;
Be careful of your words, for your words become your deeds;
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits;
Be careful of your habits, for your habits become your character;
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
「ザ・シークレット」引き寄せの法則。
引き寄せの法則についての本、「ザ・シークレット」の感想です。昨日、読み終わったばかりなのですが、一週間くらいかけてゆっくりと読みました。一言で言うと、とても耳触りのいい事をささやいてくれる本です。
「あなたは、ただ望むだけで、その願望を手に入れることができる」そう言われたら、すごく気持ちよくなりませんか?しかも、願望を引き寄せるまでは、ただただ悪いことは考えず気持ちよい気分でいなさい、とまで言っているんです。
「ザ・シークレット」は、私にとっての初の自己啓発本であり、スピリチュアル本です。30年間一度も、こうした本を書店で求め、読む機会がありませんでした。そんな中、この本を手に取ったのは、私が深刻に悩みつめ、その様子を感じ取った一人の友人が、「引き寄せの法則」の存在を教えてくれたからです。引き寄せの法則を教えてもらってから、私はネットでその内容を詳しく調べ始めはじめ、その大方の考え方を知りました。そして、さらに深く内容を知ろうと思い、最近になって「ザ・シークレット」を読み始めたのです。
正直、私が深く悩んでいる状態になければ、この本を手に取ることはなかったと思います。だって、望めば叶うなんて、胡散臭くて信じられないじゃないですか。スピリチュアルなことに興味があるといっても、パワースポットへ行くくらいのミーハーな程度で、本を読んだり、何かを身に付けたり、セミナーに参加したりなんて、全然興味がなかったのです。
でも、この世には科学で解明できない霊的な現象はあると信じてはいます。ただ、お金の匂いのするものには、近寄らないようにしています。伊勢神宮へ行き、お守りを買い、赤福を食べるのも、十分にお金の匂いがしますが、これはちょっと違いますよね。
話が逸れましたが、「ザ・シークレット」は、全世界2500万部の大ベストセラーで、日本では角川書店から販売されています。著者はロンダ・バーンさんというアメリカ在住の女性です。彼女には、テレビ番組のプロデューサーという経歴があり、この全世界での大ヒットは、文章家や思想家としての才能ではなく、マーケティング戦略を実行するプロデューサーとしての力量によるものだと思います。
先にも言いましたが、内容はごくシンプルなものです。端的に言えば「願えば叶う」ということです。そして、それを裏付けるために、繰り返し偉人や著名人の言葉を引用し続けているだけです。だから、ロンダ・バーンさん本人の文章力や思想はそんなに必要としていません。
実行を伴わなず、思考するだけで願望が実現するというのは、努力という苦しいものや、失敗という恐ろしいものを経験しなくて済むので、脆弱な心の持ち主にとっては、大変に魅力的な考え方です。そして、私たちは一部の例外を除いて、脆弱な心しか持ち合わせていないものです。魅力的なことを、魅力的に表現し、売り出す手法を編み出したロンダ・バーン氏は素晴らしいプロデューサーだと思います。
ここまでの内容を読んだ方は、「ザ・シークレット」は、売り方はすごいんだけど、内容は薄い、と思われたに違いありません。その他のこの手の本を読んだことがないのですが、確かにそれについては、否定はできない気がします。しかし、読んでいる内に、根拠のない自信が溢れてきて、ついでに行動力も出てくると思います。それが、この本を読む意味なのではないかと。
つまり、「願うだけで願望を引き寄せられる」というこの本の大きな論旨を、偉人や著名人の言葉を借りて、何度も刷りこみ、それを行動へも影響させることが、この本の目的であると思います。意識薄弱な「普通の人」である私たちは、何か行動しようと思っても、なかなかそれを実行には移せません。しかし、入り口で「行動はしなくてもいいよ。願うだけでいいんだよ」と甘い誘いを受ければ、願望実現へ向けての登山へと一歩踏み出せるのではないでしょうか。結果として、登り始めた山は登りきるしかなく、願望が実現しやすくなるのだと思います。
願望へこちらから向かっていくと同時に、願望もこちらへ向かってくるという、スピリチュアルな意味合いについては、実際に不可思議なことを何度か経験しなければ、わからないことです。そして、それを霊的な現象とみるか、ただの偶然とみるかは、その人次第でもあります。「引き寄せの法則」については、信じる人は信じたらいいし、そうじゃない人は信じなければいいと思います。
引き寄せの法則に対する私の考えのようになってしまいましたが、「ザ・シークレット」は、引き寄せの法則について、ネットで調べた以上の何かを教えてくれるものではないと思います。深い内容を期待して読むと、がっかりする人もいるかもしれません。アマゾンのレビューを見るとそんな人もちらほらいますよね。ただ、人生を好転させたくて、もがいているとか、叶えたい夢があるとかいう人が、魂のサプリメント的に読むのには、おすすめできると思いますよ。初めにも書きましたが、批判的な意味でなく、とても耳触りのいい言葉を投げかけてくれるので、元気が出て、気持ちが明るくなります。
ご縁について考える。
袖すりあうも多生の縁、ということわざがあります。町ですれ違い様に袖が触れ合うような関係でも、前世からの何らかのご縁がある、という意味です。10代や20代前半の若いころは、「ご縁」という言葉には何ら興味がなく、年寄くさい言葉とすら感じていたのですが、私も年をとったのでしょうか、この「ご縁」について考えるようになりました。
学生から社会人になり、仕事を始めるようになると、直接だったり、電話だったりで、毎日、違う人と出会うようになりました。気の合う人もいれば、そうじゃない人もいるし、良い人もいれば、そうじゃない人もいます。嫌いな人とでもある程度、我慢してでも付き合わなければならないことが、学生時代と社会人になってからの大きな違いでしょうか。
しかし、悪いことだけではなく、やはり仕事を通じてでしか出会えなかったご縁というものも感じるのです。私は、社会人になってから、年上の友人がたくさんできました。中には、私の両親と同じくらいの年の人もいます。年上の友人たちは、私を子ども扱いしたり、後輩扱いしたりせず、対等に扱ってくれ、悩みを打ち明けあったりしています。私にとっては、かけがえのない大切な友人であり、彼ら、彼女たちの生き方をとても尊敬しています。
ご縁には、良縁と悪縁がありますが、私は基本的には良いご縁に恵まれていると思っています。私は、だいたいラッキーで、良い運の巡り会わせの中で生きてきたような気がするのです。私は、お金持ちの良家に生まれたわけではありません。小さいころには小児ぜんそくに苦しみ、大人しい性格のせいでいじめられたりもしました。
しかし、私は祖父母が一生懸命働いて建てた家で育ち、今も暮らしています。祖父母の夢と思いが詰まった家で暮らすことは、とても幸せなことです。小さくて古い家ですが、家族との距離が近く、楽しい毎日を過ごしています。また、大人しく病弱な子どもだったおかげで、小学校や幼稚園の担任の先生に恵まれました。担任の先生たちは、私を放っておけないという理由で、私の担任になってくれたのでした。厄介な子どもを進んで受け持つくらいですから、責任感が強く、優秀な先生たちだったのです。
そして、優秀な先生によって、他の児童よりも人一倍目をかけられていたので、小学校高学年の頃には、クラスでも頭のいい子になっていました。先生が私をひいきしている、というクラスメイトもいましたが、私にとっては救世主で彼女たちがいなければ、どうなっていたかわかりません。本当に運がよく、いい先生に巡りあったと思います。
ただ、私はこんなに良いご縁に恵まれたのに、つい最近までご縁を年寄臭いなどと嫌厭していたのも事実です。ご縁や運には、前世から続くものや先祖から受け継いだ徳によってもたらされるものがあるそうです。おそらく、私はこうした蓄えられた徳がもたらしたご縁によって救われてきたのです。私は、漫然と構えているだけでも、運が良かったので、それが希少で大切なものであることに気が付けなかったのかもしれません。そして、30歳になって、少しずつ自分の行いによって紡がれたご縁も巡ってくるようになり、その大切さに気づき始めたのかな、と思っています。
人生は魂の修行の場説。転職。
人生は魂の修行の場である、とはよく聞く話。え、聞いたことないって?きっとそういう人もいるでしょう。しかし、スピリチュアルなことに興味のある方ならきっと聞いたことがあるはずです。
私は、お二人の著書を読んだこともなく、少しだけスピリチュアルに興味を持っています。それは、私自身がちょっと不思議な体験を何度かしたり、目撃したことがあるからです。怖い体験はしたことがないですが、現在の科学では説明できないようないわゆる霊的な体験です。そのため、何らかの死後の世界は存在するのではないかと思っています。
スピリチュアル好きにとっては、もはや当たり前である「人生は魂の修行の場」説ですが、私は、これを結構信じています。そして、人生の中で与えられた課題を乗り越えるべきタイミングがあり、それを人は「試練」と呼んだりしてきたのではないかと。私にとっては、今が人生で幾つか現れる試練の時ではないかと思っています。
こんな記事を書いたのは、今日、とあるブログを読んだからです。そのブログには、転職というのは、魂の修行がある程度済んで、もう今の職場では学ぶべきことがありませんよ、となったときに、次の職場が用意されるのではないかという趣旨が書いてありました。もちろん、人によっては、新卒から定年までひとつの職場に勤めあげる人もいる訳ですから、すべての人に当てはまるわけではないでしょう。ただ、そのブログの主は、いざ転職するタイミングになった時に、なかなか決まらなかったかと思えば、とんとん拍子で次の職場が決まったりして、それは、やはり何らかの力が働いて、道を阻んだり、逆に進めたりされて、魂の修行にふさわしい職場へと導かれているのではないかと書いていたのです。
これについては、なるほどと思いました。私の前の仕事が、職種自体は興味があったのですが、業界については自分には向いていないと思っていて、半分嫌々勤めはじめたからです。しかし、自分では向いていない場に置かれたことで苦労もしましたが、学ぶべきことも多く、大きな成長が得られました。
前職は、私にとって初めての職場だったのですが、就職活動がうまくいっていない時期(というよりは、自信を失ってやる気のない時期)に、軽い気持ちで応募、そして、その後の面接、採用、初出社までが、あっという間に完了しました。良いご縁はとんとん拍子に進むとは言いますが、そういうことなのだと思います。前職について、私は自らが最も成長できる場へと不思議な力で導かれていたのかもしれません。
今、私は無職で求職中なのですが、決まりかけた仕事がダメになったり、不運なことがありました。しかし、その決まりかけた仕事は私が次にめぐり合う魂の修行の場として相応しくない職場だったので、そこへ行く道を阻まれたのかもしれません。決まるときは、すんなり決まる。ご縁のある職場には必ずめぐり合うはず、そう思いながら就職活動をしています。
うつになったら、まず確認してほしいこと。
人生設計はいつ狂うかわからない。人は未来を完璧に予想し、計画することなどできません。だから、万が一のために保険をかけて、将来の不測の事態に備える必要があるわけです。このことについて、少し考えなければいけない事態が、今、私に起きています。
私は、年明けから春にかけてうつ状態になり、現在、心療内科に通院しています。実は医療保険が一年以内に満期を迎える予定になっています。代わりの医療保険に加入する必要があるわけですが、ここでひとつ問題が生じました。どうやら心療内科への通院歴は、完治後も5年間は医療保険や生命保険への加入の制限になるということです。
まさに青天の霹靂です。この事実を知っていれば、通院する前に1週間でも1日でも待って、医療保険への加入をすべきでした。しかし、無知な私はそんな事実は知らず、何の気もなしに心療内科に予約を入れ、診察を受けたのです。
心療内科に通い始めたころの私は、睡眠もほとんど取れず、ご飯もほとんど喉を通らない状態でしたし、まともな判断力も失っていました。そのため、症状が緩和した今、振り返っても、通院を始めたこと自体は後悔もしていませんし、心療内科のお世話になっていなければ、今頃、骨と皮だけの廃人になっていたかもしれません。ただ、医療保険に予め入っておくべきだったとは思います。
つまり、私が言いたいのは、精神的に辛いとき、心療内科や精神科に頼ることは少しも悪いことではないですし、それで、最悪の事態を回避し、症状や人生が好転するのであれば、ぜひ診察を受けるべきです。ただ、もし心療内科や精神科に初めて通院するのであれば、そして、希死念慮が強いなど、その症状が一刻を争うほどのものでないのであれば、生命保険や医療保険の加入状況を確認してほしい、ということです。もし、うつやその他の精神疾患で悩んでいて、私と同じ状況にいる人がいれば、その人がこのページに辿りつき、不要な悩みをひとつ増やさなくていいようにと思い、この記事を書きました。
さて、自分はどうしたものか。既往歴を制限しない保険商品なら大丈夫とのインターネットの情報も見つけましたので、もうちょっと調べてみたいと思います。私の周りには、パニック障害や軽度のうつの人がいたりして、精神的な病は割と日常的にかかるものだと思っているのですが、そうした人たちはこの問題をどう解決してるのかしら。ナイーブな問題なので、聞くに聞けずにいます。
仕事を通じてファンをつくるということ。
今日は、お昼に心療内科へ行き、その帰りに銀行へ寄りました。お恥ずかしい話ですが、精神的に落ち込んでいたこの2ヶ月間、国民年金の振り込みを放置し、滞納していたのです。滞納分の2ヶ月と今月分を支払うために、銀行へ行ったのですが、窓口の女性の接客がなかなか素敵でした。
何が素敵だったかというと、接客中に「今日は、日差しが強くて大変ですね~。」と声をかけてくれたことです。何だそれだけのこと、と思った方もいるかもしれません。でも、私にはその女性がすごくプロフェッショナルで素敵に思えたのです。
私が整理券を片手に、ぼーっと待っている間も、彼女だけがテキパキと仕事をこなし、隣席の女性行員に指示をしたりしていました。いざ、私が呼ばれて振込手続きの用紙に記入している最中に「今日は日差しが強くて大変ですね~」と言われ、さらに帰り際に「暑いのでお気をつけてお帰りくださいね。」と言われ、私はちょっとだけ笑顔を返しました。たったこれだけ、5分もない時間なのですが、お昼過ぎのまったりした空気の中で、彼女だけが活き活きと輝いて見えたのです。
何気ない一言や笑顔が、またこのお店に来ようかなと思わせてくれることがあります。そのお店の商品が良いわけではなく、その人がいるから買いに行くというような、そういう店員さんって、たまにいます。私には、このおばちゃんが、何人かいるそういう店員さんのひとりになりそうです。
販売にしても営業にしても、そういうファンを作れる人ってやっぱりすごいと私は思うのです。そして、そういう人は輝いてみえる。きっと幸せとか、楽しいっていうオーラを発しているし、月並みな言葉ですが、一生懸命さが伝わるんだと思うんです。だから、ファンがつく。そして、売上がついてくる。今は、無職ですが、仕事が決まったら、そういう仕事ができる人になりたいな、と思ってます。
日記を書く。自分を見つめることの大切さ。
前記事では、うつ病になった経緯を書きました。その後、4月になって通い始めた心療内科で抗うつ剤と睡眠薬(リフレックスとロゼレム)を処方され、症状は落ち着きました。はじめの2週間は、何も考えずに身体と精神を休めることにしました。もともと重度ではないためか、この2週間で症状は劇的に改善し、夜も眠れ、食欲もありすぎるほどに出てきました。しかし、心の中では、すぐに就職活動を再開しなければという思いがあり、治療開始後、3週間目に履歴書を送付し、4週目には面接も受けました。この面接がよくなかったのか、薬の効果が頭打ちになったのか、4月末には、また無気力で不安に襲われる日々がやってきました。それに伴い、食欲も落ち、手の震えや動機、発熱といった自律神経の症状も復活しました。
自分でもこれ以上、薬に頼りたくないという気持ちが強く、また、心療内科の予約も2週間後だったため、自力で精神を改善させる方法を模索しました。ネットで検索したり、本を読んでみたりして探す中で、三行日記というものがよさそうだと思い、始めてみました。一行目にその日の嫌なことを、二行目にその日の良かったことを、三行目に翌日の目標を書くというものです。はじめの10日間は、さっぱりでした。しかし、2週間続けてみると、少しずつではありますが、症状が改善されてきました。途中から、三行日記に、「幸せだから、成功するの?引き寄せの法則について。」で書いた「引き寄せの法則」の未来日記やショーン・エイカー氏の提言する感謝日記の要素を付け加えたのもよかったのかもしれません。
日記を書き始めて良かったのは、次の三つです。ひとつは、周りへの感謝の気持ちが生まれたということ。これは、三行日記の成果というよりも、引き寄せの法則と感謝日記のおかげです。でも、これが一番、心にプラスな影響を与えてくれました。ふたつめは、プラスの考え方のくせができ始めたこと。うつ状態で一人でいると、様々な負の考えが頭に浮かんできます。自分はダメ人間だとか、嫌われてるとか、ひどい時だと希死念慮が出てきます。しかし、三行日記では、悪いこと、嫌なことを書いた後に、必ず良いこと楽しいことを書きます。そうすると、自動的に、悪いことを打ち消すように良いことを思い浮かべることになります。そして、三つめは、自分本来の姿を見つめる機会ができたこと。嫌なこと、良いことは、自分がどう感じたかということが基準です。読み返してみると、考え方のくせだったり、何を大切に思っているのか、ということが少しずつ見えてきます。普段の生活の中で、他人との比較や世間体を考えてないがしろにしてきた部分が浮かび上がり、自分をもっと大切にしようという気持ちが沸き上がってきました。
精神が好転してきたのは、日記を書き始めてちょうど二週間後です。でも、その二週間はひどい心理状態でした。人と話もしたくないし、テレビや車のエンジン音もうるさくて仕方がない、不安感から身の置き方がわからず、部屋をぐるぐる回ったりもしました。暗い部屋にこもったかと思えば、太陽の光を浴びたくなり、外に出て何時間もぼーっとしたりしました。そんな状態が二週間続いて、ある日、ふと心が軽くなりました。もちろん、その後も、気分の浮き沈みはありますし、今も不安感は残っていますが、ずっと症状がよくなったのです。私には日記を書くという方法が合っているようで、うつ病が良くなってからも続けようと思っています。うつになったそもそもの始まりは、食欲がなかったり、睡眠時間が短くなったり、変なテンションだったりといった小さな変化に、自分で気付けなかったからです。日記を書くことで、心身の微妙な変化に気づき、メンタルの不調を予防することも可能なのかなと思っています。
知らぬ間にうつ状態に。
あれ、なんか落ち込み方が尋常じゃない、と気が付き始めてから、4ヶ月になります。今年の1月あたりから食欲が少しずつ落ち始め、夜も眠れなくなっていました。その時は、無職でずっと家にいたし、運動量が減っているから、食欲も落ちて、眠れなくなっても当たり前だと思っていました。それから、1ヶ月後には、食欲がまったくなくなり、夜も朝の3時ごろにやっとうとうとして、2~3時間でまた目が覚める、という感じでした。このころには、手足が震え、いてもたってもいられない不安感にさいなまれていました。体重がぐんぐん減り始めていましたが、仕事が決まればすべて解決すると思い、病院には行きませんでした。
3月末に、内々定を2社からいただきました。A社に、来月から働かせていただきたい旨のお返事の電話をしました。そして、そのすぐ後、B社にお断りの返事のお電話をしました。今、思えば、A社での電話口での様子に違和感があったので、B社への返事を少し待つべきでした。数時間後、A社は、今どきそんなことで、という理由で内定を留保してきました。私は、友人や家族とも相談し、A社で働いても肩身が狭く辛い思いをするだけだからと、お断りすることにしました。せっかく内々定をいただいた2社ともを自ら蹴る形で、無職期間はさらに先延ばしとなりました。
4月に入ると、気候はますます陽気になり、草花が芽吹いてきます。テレビでは、「新入社員が~」や「お花見が~」というニュースが流れ、自分の惨めさを増長させるようでした。季節が移り替わると、時間の流れを感じさせます。無職期間が長くなることによって心象が悪くなり、ますます内定をもらえなくなるのではという不安が募っていきました。手足は震え、動悸が止まらず、吐き気がして、不安やイライラや恐怖、形容できない種々様々な負の感情が沸き上がり、発狂するような気がしました。でも、そんな気力も体力も残されていなかったのです。もう限界でした。この世からそっと消え去りたい気分でした。私は、4月のはじめに心療内科に電話を入れ、通院を始めました。
うつになった原因は何だったのか。転職に失敗してはいけないというプレッシャーだったのかもしれません。私には周りの期待に応えようとするところがあります。見栄っ張りでプライドが高くて、弱さを見せるのが怖い人間です。失敗を極度に恐れる完璧主義的傾向が、こうした結果を生んだのだと思います。そして、私は自分では怠け者だと思っていたのですが、働くことが好きだったということにも気が付きました。私は、働くことで社会に貢献しているということに自分の価値を見出していたのだと思います。だから、何もしていない今の自分が許せないのです。
退職してからの数ヶ月、私は自分を追い込み、階段を全速力で駆け下りていることに気が付きませんでした。どこかで、立ち止まっていたら、こんな風になることもなかったのかな、とも思います。しかし、過ぎ去ったことを後悔しても仕方のないことです。今の状態になったことは必然であり、自分を見つめる時間を与えてもらったのだと考えています。
幸せだから、成功するの?引き寄せの法則について。
最近、引き寄せの法則について知りました。落ち込んでいるときに、友人が教えてくれたもので、願えば叶うとか、思考は現実化するとかいう表現で端的に表している人もいるみたいです。自分の感情や思考と同じ波動のものを引き寄せるという法則で、宇宙をつかさどる不変的なルールらしいです。
例えば、ケーキが食べたいなと願えば、友達がケーキを持って遊びに来た=ケーキを食べたいという思考の波動がケーキを引き寄せる、という感じです。スピリチュアル系なので、ちょっと胡散臭いなとは思うのですが、バカにできない考え方だと、私は思っています。実際、引き寄せの法則を調べて実践し始めてから、うつ病からくるマイナス思考から解き放たれて、症状自体も改善してきています。私には、うつの認知の歪みを意識するよりも、こちらを意識する方がずっとわかりやすいし、スムーズに自分の中で実践できている感じがしました。
引き寄せの法則では、自分の思考や願望と同じ波動のものを引き寄せてしまうので、ネガティブな感情や思考をすれば、そうした必要のないものも引き寄せてしまいます。そのため、ネガティブな思考や発想はせずに、プラスの感情や思考をすることが大切なようです。個人的には、この思考や発想をポジティブにする、わくわくすることや楽しいことを思い浮かべるというところが肝で、感情がうつの状態に傾くのを止めてくれている気がしています。何なら、何かいいことがありそうな予感さえ与えてくれます。
個人的な実感からのおすすめですが、うつ気味でスピリチュアルが好きでないという人でも、軽い気持ちで試してみる価値があるのではないかな、と思っています。というのも、言っていること、やっていることは、下のTEDの動画と同じことだからです。引き寄せの法則は眉唾ものだと思っている方も、データに基づくプレゼンテーションを見れば、モチベーションが上がるかもしれません。そして、この動画で私が気づきを与えられたのが次の事実です。成功すれば幸せになれるという思い込みが、幸せを追いかけ努力し、達成できたとなるとさらに幸せを遠のかせ、努力し…という無限ループに陥るのだそうです。当たり前と言えば、当たり前ですが、当の本人は必至だから気が付かないものです。これは、まさに一年前までの私でした。努力している=ポジティブな姿勢、と思っていたのです。でも、それは幸せではなかったのですね。手の届かない幸せにむかって目いっぱい腕を伸ばしては、疲れていただけだったのかもしれません。
この動画に加えてもうひとつ、私に気づきを与えてくれたものがありました。Yahoo知恵袋で、引き寄せの法則の達人とされているbiospark2525さんの回答です。20代女性の仕事についての相談への回答に、胸をつかれました。一部抜粋しておきます。
purpleple70さん
仕事について、引き寄せの法則の観点から相談です。甘ったれの20代女です。一応正社員で働いていますが、この会社で働き続けることを覚悟するかどうか迷っています。 ~中略~ よく、仕事の意味を分かっていない・甘い・子どもだと言われます。いつもいつも仕事を辞めて引きこもりたいと思ってしまうので、働くのならポジティブに働きたいのですが・・・。根本的に楽して生きたいと思う反面、それではつまらないのかな、と疑問を抱いています。
我慢をして働いた報酬としてお金がもらえることが仕事だ、だから辛い思いをして大変で、我慢をするのは当然だ、と会社のみんなは言います。私はその考えを受け入れきれずにいます。 ~中略~ もう働くかどうかということで悩むのは終わりにしたいのです。なんだかとても情けなくてお恥ずかしいのですが、どうか相談に乗っていただけるととても有難いです。
biospark2525さん
ぼくから見たら、あなたの感覚は甘いどころか、かなり自然で正常だと思います。仕事であれなんであれ、人はその人の信じていることを経験します。
「我慢しながらやっとのことで生活費を得るのが仕事だ」と信じている人は、我慢しながらやっとのことでなんとか生活費程度のお金を得るでしょう。
「苦しくても無理をしてでもあきらめずにがんばれば必ず成功する」と信じている人は、いろいろと波乱万丈を乗り越えてついに成功するでしょう。
「努力とか頑張りとかではなく、自分が素直に楽しいと感じたりわくわくすることやっていれば自然とうまくいくもんだ」と信じている人は、仕事を楽しみながら、生き生きと働いて、楽しくて仕方ないと言いながら成功するでしょう。
「働いても働いてもお金は足りない」と信じている人は、いくら働いてもお金に困るでしょう。
仕事についての考え方に正しいも間違いもありません。唯一の正しい生き方、というものは存在しません。あるのはただ「どんな生き方を好むか」という好き嫌いだけです。自分で選べるのです。
仕事について、引き寄せの法則の観点から相談です。Yahoo!知恵袋
私は、仕事は面白いものだと思っていましたし、今もそう思っています。しかし、「苦しくても無理をしてでもあきらめずにがんばれば成功する」と信じている人でもあります。私は、もう一歩進んで、「努力とか頑張りとかではなく、自分が素直に楽しいと感じたりわくわくすることをやっていれば自然とうまくいくもんだ」と考えられる人間になりたいのです。半分はそう思っているけど、もう半分では疑っている自分がいます。努力が美徳であるという教育が身に沁みついている、というのもあるでしょうし、両親や祖父母が苦労している姿を見てきたから、というのもあるかもしれません。
「成功→幸せ」という考え方は心を消耗させるだけです。TEDのプレゼンテーションでショーン・エイカー氏が提唱するように、考え方のくせはトレーニングによって鍛えられます。早速、実践あるのみ。ということで、私は、数日前から日記にその日におきた感謝することを記しています。言うは易し、行うは難し。これからどうなるかは、お楽しみです。
はじめに。
まずは、現在の私の状況を説明します。31歳、女性、無職。うつ病で通院中です。無職期間はもうすぐ10ヶ月で、うつになったから仕事を辞めたわけではなく、無職期間が長くなり、求職活動のストレスから、発症しました。書いているだけで、胃がむかむかして、不安が押し寄せてくるような状況です。
ブログのタイトルは、「それでも夜が明ける」としました。うつになってからは、朝がとてもつらく、得も言われぬ不安感や焦燥感とともに目覚めます。つい最近までは、眠る前にこのまま永遠に夜が明けずに朝が来なければいいのに、と思いながら目を閉じていました。しかし、それでも夜は明け、朝はやってくるのです。
「それでも夜は明ける」は、2013年公開の映画の邦題です。原題は"12 years a slave"、白人に騙され奴隷として売られた主人公が、再び家族と再会するまでの苦難の日々を描いた映画です。(詳しくはこちら)どんなに逃れようと心はもがいても、生きている限り苦しみは続き、明日が来なければいいのにとさえ願っても、それでも夜は明け、苦しみは繰り返される。そんな絶望の心を代弁する「それでも夜は明ける」そして、苦難の日々にもやがて終わりが訪れ、希望の光が照らすという意味での「それでも夜は明ける」そんな二重の意味を含むタイトルが、今の自分の気持ちを表すのに、一番合っていると思い、ブログタイトルにお借りしました。(今の私の状況は映画の主人公に比べれば甘えたものではありますが。)
一年前、私はまさかうつ病になるとは思いもしませんでした。私は、働くことが大好きで、仕事が楽しかったのです。転職の理由は、自分が他でも通用するのか試してみたい、環境を変えてもっと刺激的な場所で働いてみたい、という思いでした。そこには、30歳を迎えたことでの焦りがあったと思います。ポジティブな意味での先述した理由もありましたが、まったく逆の安定した職に就きたいという思いもありました。今でも、本当の理由なんてわかりません。しかし、30歳になっても、女一人で生きていく覚悟ができるほど年収がいい訳でもなく、かと言って、結婚の予定があるわけでもない。とにかく何かを変えたかった、そんなもがきの結果としての退職だったのかもしれません。
それなりに評価された立場を捨てて勿体ないことをした、もっと冷静になって計画的に転職活動をすべきだった。そんな思いが、胸を去来することがあります。しかし、これでよかったのだと、私は思っています。うつ状態になって、自分と向き合う時間ができました。支えてくれる家族や友人への素直な感謝の気持ちが芽生えました。必要以上に頑張りすぎて、周りが見えず自分さえも見失っていたことに気が付きました。今は、まだ辛くとも、いつか日はのぼり、明るい日々がやってくる。このブログでは、今の状況から自由で幸せな生活を叶えるための道のりを綴っていこうと思っています。
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